
神道の事を紹介しているブログなので日本神話の概要をお伝えしないわけには参りません。
と言う事で、日本神話について神代編を中心にご紹介できればと思っています。
内容に入って行く前に、私の思う日本神話の事及び神話に対する基本的な姿勢を記述させて頂きたいと思います。
日本神話をあえて載せない教科書
日本神話について、学校で勉強された記憶はありますでしょうか。
神話と言うのは我が国の世界観や物の考え方の原点とも言える内容なのですが、少なくとも私が持っている高校の歴史教科書はアウストラロピテクス(初期人類)からはじまる奇妙な構成。
「日本史」と言う教科はあるのですが、何故か人類史からはじまって日本誕生の瞬間をよその国の書物『魏志倭人伝』に見出しています。
子どもながらに「神話と歴史はちゃうもんなんかな?」と思っていましたが、今では神武天皇の御事績や日本神話に登場する魅力的な神々の事等、我々の祖先が思いを込めて繋いできた「日本人のヒストリー、ルーツとしての日本神話」を楽しんで研究しています。
このシリーズでは貴方と一緒に日本神話の世界を冒険したいと思っています。
難しい解釈が必要な場面もありますが、我々のDNAに神話の記憶が刻み込まれているのか楽しくなってくると思います
人によっては懐かしいと感じたり。何かに目覚める事も(?)。
是非その感覚を味わって欲しいのです。
灰塵に満ちたこの俗世ですが『古事記』や『日本書記』が高天原と根の国の扉を開いてくれます。
そうする事でこれまで、触れた事が無かった考え方や日本人が紡いできた価値観と出会う事になります。
常識とは少し離れた感覚的なのにどこか思弁的な幽玄な雰囲気を感じてください。
日本神話と津田左右吉ー神話に対する実証学の眼ー
昔、津田左右吉(ツダソウキチ)1873年(明治6年)10月3日 – 1961年(昭和36年)12月4日と言う偉い学者がいました。

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津田左右吉先生は、『古事記』や『日本書記』には潤色が多いと文献批判を行いました。
『日本書記』の文章を批判的に考察し、そして聖徳太子の不存在性に言及した事でかなりの批難を浴びた人でした。
後に「津田事件」と言われて、津田先生は皇国史観の立場の人たちから散々批難されます。
この事件については戦前戦中の日本を良く思わない学者が、当時の皇国史観に立つ人々の異様さを伝える為の好例として、良く引き合いに出したりします。
それはさておき、批判的、実証的研究についてですが、私も大学院の法制史の先生と「素戔嗚尊が田の畔を破壊する記述があるが神話の時代から田があったのか」と一緒に考えた事があります。
実証的史料的観点から神話を考察してしまうと疑問が湧いてしまってしかたありませんでした。
天照大御神は実在したのかと言った類の話も同様です。
これは「神話を歴史学」で解明する試みで、それはそれで結構かと思います(その意義付けは歴史学の先生方が見出すとおもいます)。
しかし、私の立場からしますと「神話を神話」として理解する事の方が大事だと思っており、このブログではその姿勢にこだわりたいのです。
因みにですが、津田左右吉先生は、神話を批判的に考証しましたがそれは皇室を否定する為の政治的、思想的な意図があったわけではなく、あくまでアカデミックな欲求を満たす為のものでした。
つまり皇室廃止論者ではないのです。
戦前は皇室を尊ぶ論陣を張っていた学者が、公職追放を恐れたり、赤化する世間の流れに迎合し皇室廃止論者に変節する者が多かった中、自分の学説思想信条の筋を通した稀有な学者と言えます。
日本神話と宗教言語
「神話を神話」として理解すると言う意味ですが、上田賢治先生の『神道神學』に上手く表現されている箇所がありますので、引用したいと思います。
神話は事実を叙述し、伝達しようとする日常言語によって語られているのではない。それは、事実それ自体の背後に隠れ、ある意味で事実を超えた意味世界を、イメージによって伝達しようとする宗教言語なのである。
出典:『神道神學』上田賢治著、13頁。
私の神話に対する理解もこの一文に尽きます。
現象そのものよりも現象が表すなんらかの概念をその現象の解釈によって捉える。
この視点がなければ神話を読む意味がないとさえ思います。
オットーの『聖なるもの』で語られた「聖なるもの」の研究方法と良く似ていていますね。
この『聖なるもの』を読んでいると西洋の合理的な思考を輸入した事によって日本人から失われてしまった神話への視座を合理性の親元とも言うべき、西洋人に再提供されていると感じます。
そして、西洋人の御教えと言う事で有難がるわけですが、今の日本人は外国人によって宗教に対する価値認定されない限り宗教(日本の神話)を心に取り戻すアクションを起こさないかもしれないと少し悲観したものです。
オットーの『聖なるもの』については、「神道を知るための序説」で触れております。
色々と書きましたが、日本神話を読むにあたっては楽しむのが第一。
日本神話の意義付けも大事ですが、素朴で雄大でそして、人間味あふれる神々のお働きは読んでいて楽しいものです。
日本神話を楽しみ、意義付け、解釈し、後世に伝えて行く。これは日本人が間違いなく適任だと思います。
他人や海外からの評価はさておいて、主体的に楽しみ勉強して行きましょう。
基本的には古事記をベースに神社検定攻略に役立ちそうな部分を意識しながら、私の考えも披瀝できればと思っています。
次回より本文に入っていきますので宜しくお願いします。