神道論

三種の神器と帝師「杉浦重剛」

八咫鏡、八尺瓊勾玉、草薙剣、三種の神器については神道においても重要な地位をしめるものですが、昔より色々な研究がされてきました。

ここでは、昭和天皇の皇太子時代に「倫理」の先生だった杉浦重剛(スギウラジュウゴウ)の三種の神器論を紹介したいと思います。

人、杉浦重剛

「杉浦 重剛」

安政2年3月3日〜大正13年2月13日(1855年4月19日〜1924年2月13日)

昭和天皇の皇太子時代に進講(倫理学の教授)を行った人物。

膳所(ゼゼ)藩=大津にあった藩の出身でイギリス留学したり、学校を作ったりと、明治・大正時代の偉人です。

御学問所御用掛と呼ばれる東宮(皇太子)に対して、学問を教授する機関があったのですが、東郷平八郎が総裁を務め当時の学問の粋を集めたところでした。

様々な教科がある中、「倫理」を担当したのが杉浦重剛だったのです。

当時、倫理の担当だけが決まらずにいました。「倫理」と言う教科の特性上、学説を述べるだけでなく行いも立派な学徳兼備の人が求められたからです。論語読みの論語知らずではいかんと言う事。

帝大教授の中にそういう人がいないと言う事で民間からも広く人を求める事になり、学問に加えてその実践も兼ね備えた杉浦が選任されたそうです。

知っている人は知っているが、知らない人は知らない。当時はそんな人物の採用に少しざわついたそうでが、杉浦自身もかなりの重圧を感じていました(実は内定者がいたが重圧に耐えられず辞退していたと言う裏話もあります)。

当時の雰囲気を想像するだけで緊張感が伝わってきますが、その様な中、倫理の授業もはじまります。そして最初の講義が「三種の神器」についてだったのです。

皇太子に対して行われる御進講ですから、まさに帝王教育。我々には関係ないと思いますが、そんなことはありません。人として生きる上で大事なことが示されています。

『倫理御進講草案妙』杉浦重剛謹撰を参考に三種の神器観をご紹介したいと思います。

三種の神器と智仁勇

西洋の王様の王冠や錫杖、シナ大陸の歴代王朝の玉璽等、王権のシンボルとなるものを所有することで、王位にあることの正当性を証明がなされたりします。

それらシンボルとなる物をレガリアと言って、三種の神器もその機能を有しています。

しかしながら、三種の神器についてはそれ以上の意義があると主張される事があります。

それは王権以外にも、規範・徳も象徴していると言う考え方です(宗教学において神器がお祀りされている事実から器物信仰であるとカテゴライズされる事もある様です)。

杉浦重剛もまた、御進講においてこの考え方を基に三種の神器観を開陳しています。

それぞれ八咫鏡を智、八尺瓊勾玉を仁、草薙剣を勇を表しているとし、西洋で説かれる知情意、儒教上の智仁勇の考え方を材料に、倫理的価値が説明されています。

八咫鏡(やたのかがみ)と智

鏡は、物を明らかないする存在であるから、智の象徴だとします。八咫鏡はまさにこの智と言う徳を実物でもって示しているのです。

鏡=物を明らかにすると言う意味が少しわかりにくいのですが、例えば朝鏡に向かうときをイメージすれば良いかと思います。

例えば、寝起きの顔はどうなっているのかわかりません。鏡に向かえば今の自分の顔の状況を知ることができます。

またある映画での話、一つの鏡以って太陽光を反射させ、その反射光を別の鏡に反射させることで部屋を明るくすると言う演出があったりしますが、鏡は視界を明瞭にしたり物を詳しく知ると言う事と切り離せない関係です。

従って鏡は智を象徴しているとするのです。

我々は、まず「知」ることからはじまります。ここからは、杉浦の論ではないですが物事を知るだけに留めていては、雑識と言って役に立ちません。

雑識を整理して、筋道を立てて体系化し、見識に変えねばなりません。

雑識が「知」、見識が「智」、「知」の発達した形が「智」とすることもできるでしょう。ただの物知りではなく、未来を見通する智識を持つべしと言う事です。

杉浦は特に「知」と「智」を異なるものとは考えていないようですが、私は知識にもレベルがあると考えていて、雑識と見識の違いがあると考えています。

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八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマ)と仁

玉は円満で温順、仁を表すとされます。仁の一字の解釈だけで、恐らく汗牛充棟で収拾がつかないのですが、杉浦曰くあっさり「慈愛」と定義して、話を進めています。

玉は角がなくてギスギスしていない形状からして優しさとか愛等を表現していると言う事なんでしょうね。

我々は、常に「情」と言うものに揺れ動かされています。喜怒哀楽に振り回されて休む暇がありません。そう言った感情の中で、慈しむ心(愛する心)が「至清(しせい)」で「至純」だとしています。

殆どの場合、感情が沸きあがる原因は自分にあります。映画を見て楽しかった。走り回って疲れた。会いたい人と会えずに悲しかった等々。

これに対して、慈しむまたは愛する気持ちがあると相手の状況に起因して感情が湧き起こることがある。要するに共感する状態。

他者を思う気持ちはをベースに喜怒哀楽が湧き起る心理状態は実は家族の中で良くある話です。

例えば家族がピアノコンクールに出る。舞台に立った時の緊張感と演奏を終えた時の達成感、そして優勝した時の喜び、「自分の事の様に」と言う状態は、慈しむ、愛するが故に起こる事ではないでしょうか。

八尺瓊勾玉は、この慈愛を象徴している。

草薙剣(クサナギノツルギ)と勇

剣は勇を表しているとされます。

自分の中でやりたいことがあり、それをやるぞ!と決断する徳を言います。

戦いの時、勝ちたいと思う気持ちとその気持ちを実現するために与えられた剣を決断、勇断の象徴とする。とても分かり易いのではないでしょうか。

我々は「意」と言うものを持っている。ある事を行いたいとする気持ちで、志と言われたりしますが、いざ事を興そうとすると矛盾や困難にあって困惑します。

その矛盾や困難にあっても、屈せず撓まずに断行していく事を「勇」とするのです。

智仁勇は天下の達徳

西洋の場合この三徳を論理的に説明するが、日本においては三種の神器を実物を以って語らしめているのです。

道徳の種目は沢山あるが、この智仁勇に重きを置いて、修養すべきだと杉浦は説きます。

帝王学の観点から言えば下記の通り。

  1. 智:知を磨くには種々の学問を学び、古の聖賢の教訓を味わう。
  2. 仁:幾千万の民の親として国民を愛隣するのが肝要。そうでないと人心は離れる。
  3. 勇:問題が起こったら放置せず、勇気を以って向き合う。

我々一般人でも十分、修養の目標にもできますが、②は今後生活の中で交わる様々な人たちに愛をもって接すると読み替えてもいいかもしれません。

以上は杉浦重剛の進講に示された三種の神器観ですが、レガリアと視るか、霊物と視るか解釈の仕方は個人にゆだねられています。

神道では、倫理的な問題提起が少ないと言われますが、清明正直をはじめ、三種の神器からも倫理学的考察の糸口はあるものです。研究する側の姿勢ですね。

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神田 哲拓
神田 哲拓
神道ブロガー。神道研究で得られた智慧の共有をモットーに、神社や神道記事を執筆しています。 神社大好き人間(神社検定壱級)兼 大家さん(現在戸建1戸+宅建士)兼 サラリーマン。 神道研究とフォルクローレに没頭したい。あはれ、 あなおもしろ、 あなたのし、 あなさやけ、おけ。我が信ずるところに従いまして言の葉を紡ぎます。
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