
本記事では五大神勅と天壌無窮の神勅について考えます。
日本の統治の根本は五大神勅に基づいて行われて来たと言えますので、神道と政治に関わる記事とも言えます。
国の方向性を見失った時、そのあり方の鍵になる内容だと思いますので、ご自身の国家観を組み立てる際に参考にして頂ければ幸いです。
共産系思想(唯物史観)、東京裁判史観(一般的な小中高校で習う歴史観、或いは今のマスコミが伝える歴史観)を堅持している方にとってはしんどい内容かもしれませんのでご注意ください。
神勅の現代的意義
我が国は立憲主義の国で憲法を最高規範として国政が行われ、民間人は間接的であれ、憲法の示す規範を諸法律を通してこれを順守しております。
この憲法による国家統制は明治より取り入れられた西洋伝来の体制で、憲法があるらゆるもに超越する最高の規範であると強烈に認識されはじめたのは最近の話です。
そうであれば、それ以前は何か別の規範があってのか、国家はどのような指針を以って営まれてきたのでしょうか。
この事を考える場合「明治憲法」や「五箇条のご誓文」や各時代の律令等に織り込まれてきた日本古来の価値観、言い換えるならば、歴史を通して守られてきた日本人の普遍的価値観(貫史憲法)の研究も必要になってきます。
貫史憲法の片鱗として日本の草創期に規範としてきた神勅について取り上げざるを得ません。
それは、日本人の普遍的価値観の礎と言っても良いからです。
その規範が天皇いますことによって脈々と受け継がれ、今なお守られている奇跡は本当に驚きます。
先人たちがその身を以って経験し作り上げ守ってきた国家の根本指針を探る。
日本人であることに誇りを持つ方、伝統を大事にしたい方にとって神勅謹解の持つ意義は言わずもがなです。
一方で憲法の他に規範があるとの主張は、現代の価値観で言うと違和感がある話かもしれません。
しかしながら、「絶対的権力を縛る物が必要」との観点から見ても、神勅は天皇を天皇たらしめる根拠となる存在からの命令ですので、天皇ですら逆らえない規範と解する事もできます。
従って自由主義の観点から言っても神勅への理解を深める事は有意義なのです。
君主制(と言っても天皇陛下や皇室が西洋の君主制、王室と全く同義であるとは言い難い部分もありますが)の解毒を試みたい方にとっても、神勅の持つ意味を現代憲法解釈学に寄せて謹解し、西洋的な普遍的価値観=人権や平等や平和等を日本風にアレンジして、神勅を頂点に置く現代的法体系の構築も可能かもしれません。
要するに神勅には普遍的価値を実現する力があるのではないかと言えるのです。
以上の点からも神勅の謹解の意義は認められますし、それこそ産霊を根底にして解釈を行えば無限の可能性を見せるので、天上無窮の玉条であると考えています。
五大神勅:
- 天壌無窮の神勅 ⇒謹解記事「五大神勅ー日本の礎ー ①天壌無窮の神勅」
- 同床共殿の神勅 ⇒謹解記事「五大神勅ー日本の礎ー ②同床共殿の神勅」
- 斎庭稲穂の神勅 ⇒謹解記事「五大神勅ー日本の礎ー ③斎庭稲穂の神勅」
- 神籬磐境の神勅 ⇒謹解記事「五大神勅ー日本の礎ー ④神籬磐境の神勅」
- 侍殿防護の神勅 ⇒謹解記事「五大神勅ー日本の礎ー ⑤侍殿防護の神勅」
「1」天壌無窮の神勅
葦原千五百秋(あしはらのちいほあき)の瑞穂の国は、これ吾(あ)が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)なり。宜しく爾(いまし)皇孫(すめみま)就(ゆ)いて治(しら)せ。さきくませ。宝祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、まさに天壌(あめつち)と窮(きわま)り無けむ。
意味:葦が茂る永久に瑞々しい稲穂の実る国は、我が子孫が君となる地である。我が子よ、治めなさい。さあ行くのです。皇位の栄える様は、天と地が永久であるが如く限界はありません。
日本が日本と呼ばれる核心部分です。
天照大御神の御延長たる天皇がおられる。
この一点で他の国々と異なっています。
そして昔から制度の揺らぎはあっても天皇は日本を治すご存在でした。
皇室は時代が下っても栄えるとの福音は、神道における弥栄=上昇史観の基にもなっております。
この神勅を以って全知全能の神から王権を親授され、天皇は好きな様に日本を統治できると解釈するのは、浅学との誹りを免れません。
第一に神勅の淵源たる天照大御神は高天原をしろしめす存在でしたが絶対権力者ではありませんでした。
「全知全能の神」とは言えません。
天照大御神の御本質は愛、産霊であるが故に、愛に依る統治はこの親授に因って天皇に委託されているかもしれないのですが、何でも知っていて何でもできる神の委託故に圧倒的権力による統治は予定されていないのです。
天照大御神は物事を決める際、 天安河原 (アメノヤスノカワラ)で衆議一決してますし、弟神素戔嗚尊が暴れた時には。
そして彼の神様の暴走を抑えられずに岩戸に籠られた様に絶対的な存在ではなかったのです。
権威はあるが権力が無い、現在の皇室や武家が力を持っていた時の天皇像と一致している様な気がします。
第二に仮に全知全能の神から王権を親授されたとして、天皇は、天皇を天皇たらしめる根拠となる存在(天照大御神)を無視できません。
神勅と神勅から導かれる派生原理は天照大御神へ反抗であり、それは自身の根拠を揺るがす事になるからです。
その為に、神勅は憲法以上に天皇の君主としての権力を抑制する力があるのです。
この点で「天皇は好きな様に日本を統治できる」と言う事が否定されます。
これらを前提に天壌無窮の神勅を視ると、かの有名な「治ス(シラス)」「うしはく」論が窺えます。
シラスとは権威による統治、うしはくは武力等による権力による統治を言うとされます。
この神勅には当に「シラス」とありますから、権力を以ってする統治は否定しているのです(シラス・ウシハク論はもう少し煮詰めて別記事をたてます)。
上記は、かなり憲法論臭い、自由主義的観点からの神勅の理解でした。
一方で神道の道を歩む者たちの立場で言えば、この神勅は天照大御神と言う産霊の大御神の延長、すなわち天皇を現世で戴き「産霊主義」の貫徹を喫する為に厳守せざるを得ません。
神道の素養が無いと、前段の自由主義的側面や価値論が優先事項になると思います。
こればかりは各人の世界観、思想信条の違いですの致し方ありません。
大変失礼を承知で申し上げれば、価値論の観点から天皇陛下を考えますと外交上、各国に散らばる大使に比して、その外交的効力がとんでもなく高いとも言われたりします。
そして政治的な面から考えると天皇いますことで、例えば大化の改新や明治維新の要に国家が滅亡しない程度で革命(維新と言う方が正しい)が行われる世界で類を見ない、絶妙な統治システムが築かれているとも考えています。
易姓革命と呼ばれる徹底した破壊が起こらないのです。
天皇は天皇制と言いたてて、弓をひいてくる相手に対してですら安らかなれと祈っておられる。この点は、忘れてはなりません。
この神勅は王権神授説を述べていると言う皮相的な捉え方はもったいないです。