
「穢れ」の再構築と「祓え」作用の大事な要素について。
穢れのイメージ
穢れとはそもそも何か。この記事では自分の存在(魂)と統合できない異物と定義致します。
簡単に言えば自分が嫌悪感を感じる物・事です。
卑近の例で言えば、ピーマン嫌い、トマト嫌い等、食べ物の好みがとってもわかりやすいですね。
自分が美味しいと感じる食べ物の中に嫌いなものが混じっていると食べ物と言うより異物に見えてしまいます。
精神面で言えば、ストレスが異物と言えます。人前に立たされる。怒られる。
捌ききれない仕事量を負わされる。テストの為の勉強。これらも穢れに該当するかもしれない。
つまり自分に統合され得ない存在、外側から貴方自身に圧力をかけて来たり、嫌な思いをさせるものそれが穢れと言う事です。
穢れをこの様な捉え方をすると物・事それ自体が穢れではなく、その人との関係上に成り立つ非常に相対的なものだとも言えそうです。
ある人にとってはピーマンが苦手だけど、ある人にとっては好物である様に。
究極的に単純でわかり易い例は、生きてるものが死んでるものに対する嫌悪感でしょう。
この様に考えると我々は穢れに取り囲まれているわけです。
穢れは日常に蔓延していて付き合い方を考えないと行けない。穢れを穢れのまま放置する事は生活を困難にしてしまいます。
ですから、穢れへの対処として「祓い」と言う考え方も生まれてくるのです。
祓いの一法
大祓の神事や祓詞等、穢れを無くしてしまう儀式や作法(手水舎)の多い神道ですが、穢れ同様に祓についても実は多義的。
前項においては、穢れは消すものとは言わずに、あえて付き合い方を考えないといけないと申しました。
この記事において祓いの作用において穢れを「消し去る」ではなく穢れと「付き合う」にフォーカスしたかったからです。
私が注目しているのは大祓詞に出てくる「神問はしに問はした給ひ」の部分。
一般的に祓と言うと大幣(木の棒に麻又は紙を取り付けた祭具でよく神主さんが左右左と揺すってる場面を見たことがあると思います)で祓ったり、祝詞を上げて祓ったり、「穢れ」を消し去る作用に期待してしまいます。
しかし「問う」と言うことは「穢れ」を「消し去る」のではなく、「穢れの発生源」に直接アプローチしているのです。
問うとは自分が疑問に思っていることを解消させるための対象者との交通手段の一つです。問いを発したと言うことは、その対象を知ろうとしている事。
前項中ピ-マン嫌いの話をしましたが、例えばピーマンに対して問う。
ピーマンが喋るわけではないですが、ピーマンの事を知ろうと思えば体に良いと言う事を新たに知る事ができるかもしれない。或いは苦い印象しかないピーマンも新しい調理法を知れば美味しく食べられて逆に好きになるかもしれない。
要するに、問う事を通じて穢れの発生源となっている事・物を多面的に捉えて、穢れを生み出すような消極的な要素以外の有用で積極的な要素を発見するのです。
この様に考えると知ることは即ち好きになる機会を作っているとも言え、ひいては穢れを発生させている事・物を自己への統合にも繋げられる可能性が出てくる。
そうなってくると穢れを発していた存在を自分に取り込み自分を構成する大事な要素になるかもしれないのです。
ストレスは継続して受け続けるのもしんどいですが、ストレスの原因を知ればその人を成長させるスパイスと捉える事も可能かもしれません(ストレスに注目するのではなく、ストレスの原因となっている事象を見据えこれを乗り越える=糧にして自分の成長につなげる)。
この様に考えて行くならば単純な「消し去る祓え」よりも「付き合う或いは取り込む為の問祓い」の方がより日本的な気がします。
対象を削除してしまうのではなく、自分に対象を取り込む祓えの一法。
ダイバーシティ化(個人の産霊の胎動)が進む現代において、自分が不意に穢れと思って寄せ付けなった他者を肯定する方法として、祓いに含まれる重要な効用の一つではないでしょうか。