
有名な神社に行くと拝殿から聞こえてくるおまじないのような声。
意味不明な呪文ではなく日本語なんです。言い回しや独特の雰囲気があるのですが、実はお経よりも分かり易いのです。そんなたくさんある祝詞の中で親しみ易い神棚拝詞をご紹介したいと思います。
身近な祝詞そして箴言としての役割
神道を語るうえで大祓詞は大変重要な祝詞がありますが、これがなかなか内容が難しい。然しながら高校で習う古文とは違い、なんとなく意味が分かるのが不思議なのです。
そうは申しましても、やはり長文な祝詞なので面食らってしまうかもしれません。
この様な神主さんが唱える祝詞とは別に家庭用祭祀の祝詞もあります。身近で且つ日々の指針となる内容の祝詞を紹介したいと思います。
暗記して毎日唱えれば、この優れた指針が潜在意識に溶け込み。困った時にはインスピレーションをもたらしてくれるかもしれません。
迷った時の指針として常に心にして置きたい言葉はとてもシンプルです。
例えば、終戦処理に当たった我が国の宰相、鈴木貫太郎は「正直に腹を立てずにたゆまず励め」と言う言葉を残してます。とても分かりやすいですが我々の行動の指針とするには十分な箴言(シンゲン:戒めの言葉)です。
神棚拝詞も簡単で理解しやすい祝詞ですが、上記の意味で大変価値のあるもの。味読、音読を強くお勧めする理由です。
神社拝詞とその意味
先ずは本文です(ワードプレス、ルビ打たれへん・・・)。
此(こ)れの神床(かむどこ)に坐(まし)ます
掛(か)けまくも畏(かしこ)き天照大御神(あまらてすおおみかみ)
産土(うぶすな)の大神等(おおかみたち)の大前(おおまえ)を拝(おろが)み奉(まつ)りて
恐(かしこ)み恐(かしこ)みも白(まお)さく
大神等(おおかみたち)の廣(ひろ)き厚(あつ)き恩恵(みめぐみ)を辱(おろが)み奉(まつ)り
高(たか)き尊(とうと)き神教(おしえ)のまにまに
直(なお)き正(ただ)しき眞心(まごころ)もちて
誠(まこと)の道(みち)に違(たが)ふことなく
負(お)ひ持(も)つ業(わざ)に励(はげ)ましめ給(たま)ひ
家門高(いえかどたか)く 身健(みすこやか)に
世(よ)のため人(ひと)のために盡(つく)さしめ給(たま)へと
恐(かしこ)み恐(かしこ)みも白(まお)す
漢文や神道について素養がない方でも普通に読んで理解できる内容かもしれません。
「此(こ)れの神床(かむどこ)に坐(まし)ます」は神棚のある家庭を前提としていますが、神棚が無い家庭でもこの部分と3行目の「の大前」を飛ばして読んでも良いのではと思っています。さて、それはさておいて先ずは意味を見ていきましょう。
「この神棚にいらっしゃるその御名をお呼びするのも恐れ多い、天照大御神(アマテラスオオミカミ)、産土の大神たちの御前に拝し奉りまして、恐れながらも申し上げます。
大神たちの広く厚い恩恵に敬意を持ち、高く尊い神々の教えに従い、正直な心と真心を以って誠の道を踏み外すことなく、自分の責任ある仕事に励んで取り組めます様に、また一族の繁栄と共に、健康な体で世の為人の為に尽力できます様にと恐れ多くも申し上げます。」
神道には倫理観が無いとも言われますが、心にとめておきたい倫理的な内容だと思いませんでしょうか。とても「こうしなさい!」感があるのに、大らかな印象を受けるのは祝詞の調子のお蔭かもしれません。
神棚拝詞考-恩恵-
祝詞の5行目恩恵について。
神々の恵みとは、何のことか分かりくいのですので少し考えてみましょう。
良く考えますと我々は自分の意識できる範囲だけで生きているわけではなく、自分だけではコントロールできない部分で我々は成り立っている事に気が付くはずです。
例えば太陽。
粛々と東から昇り、西に沈むを繰り返しています。これは我々の意思とは関係なく働き、我々の活動の時間(朝昼)と休息の時間(夕晩)を構成する要素になっていたり、生活に必要な食物を育ててくれますます。
また、身体の方に目を向ければ呼吸を除き様々な器官が無意識に体を支えています。
見えるからあると言うのは浅薄な話で実は見えない所で(もちろん見える形で)あっても法則に則り、自分を、人間を、世界を維持しているのです。
無神論者っぽく言うと、神とはこの見えざる法則(乃至物理法則)と呼ぶことも可能かもしれませんが、私の立場からすればこの法則に人格ならぬ神格を認めているので見解が違います。
さらに言えば、古事記等を見ると神々も働いておられる。即ち法則を神と呼ぶこともできるし(例えば退魔の法則を持つ桃は神と認められ加牟豆美命とお呼びする)、法則をお支えになっている存在(例えば祭祀を司り皇室をお支えする天児屋命)も神と定義できそうです。
それはさておき、我々はこの神(ここでいう所の法則)によって、守られ生きている。
種が芽を吹いて、葉を茂らせ果実を実らせる。この誰でも理解できる法則(或いはこの法則を支える存在)があるので我々は食物に困ることがありません。
この法則そのもの、或いは法則を支える力を恩恵と言うのです(反対種が芽吹かず枯れる様に、法則が法則通りにならない、これは「不祥」と言えますね)。これに感謝する、敬意を払うのは至極真っ当な道ではないでしょうか。
そして、感謝する敬意を払うと言う事はその恩恵を強く意識する事になり、大事にしようと言う気持も湧く、そうすればこの恩恵の作用即ち法則が法則として機能しその様の品質が高められてどんどんその存在価値は盤石になっていきます。
神棚拝詞考-御教-
祝詞8行目の御教について。
神道には教義が無いと言われますが、神道は神の「道」、即ち歩んでいかなければならない道、踏み外してはいけない道があると言うことを教えています。
神話には完ぺきとは程遠い神々の姿が描かれていますが、我々もその神々の末裔、神々の延長線にある存在。ですから失敗をしてしまう神々と同じ性質を持っていると言っても良いと思います。
云わばご先祖様たちが身を以って教訓を垂れてくれいるのですから、神話から学ぶことは多いのです(このブログは神話からその規範的なものを読み取ろうとする試みもやっています)。
但し、こうしなさい、ああしなさいと喧しく禁忌が書かれているわけではなく、読み手の立場や受け取り方によって様々です。感受性の高い人や神道に意義を見出そうとする人によっては、古事記等の神典は万古不易の大教書となります。
一方で、意義を見出そうとしない人或いは宗教に対して不寛容な人にとっては、荒唐無稽な昔話にしか思えないでしょう。
この様に人によって御教は非常に相対的なものなのですが、日本神話は、少なくとも押さえておきたい日本人の共通認識を色んな話の中で伝えてくれているのです。
神棚拝詞考-誠-
祝詞10行目の誠について。
清明正直は神道における一番わかりやすい訓戒ですが、では何を以って正しく、何を以って直しと言うのか。これは、結局御教の理解によって各々が感じた道を行かざるを得ないと思います(御教は正直の心であり、正直の心は御教であると言う循環の海に陥りそうですが、御教のヒントは古事記等の神典に散りばめられています。自分の中で御教の体系立てる事ができれば正直の心も鮮明なるかもしれません)。
然し、祝詞本文に「誠には違うな」とあります。清明正直とは違う徳目です。
漢字の意味合いからすれば、言う事が成と書いて誠。自分の言った事ひいては自分が考えていることが行われている状態で両方が噛み合っていることを指します。
神道上(神道神学におけるの上昇史観の立場)から解釈して見ると、自分の魂の欲求と行動が一致しているかどうかが問われているのだと思います。自分の産霊が輝けているかどうか。
これが神の道を進む上で最低限守らなければならない訓戒とすることができるでしょう(結局最低限の共通認識とすべき、ここの部分も色々解釈できますが)。
蛇足:この誠については真事、真言等と書いて命(みこと)と関連させて意味を解き明かそうとしている大変面白い論文もあります。別の機会にご紹介したいと思います。
神棚拝詞考-世のため人の為-
祝詞13行目の世のため人の為について。
神道の特徴の一つですが、他利的な要素がここで述べられています。
独り、現世的な成功しても、それが幸福かどうかわかりません。しかし。自分の負いもつ業をこなし成功をおさめるだけで、実は社会の需要を満たしたことになり、他利の精神に適っています。
人は自分の心願成就以外に目標を見出せるのです。
これは福音と考える事もできそうです。
自分の中でやりたいことをやりつくした先に何を見るか。そんな言葉で締めくくられているように思います。人は他との関係性において成長する。西洋の哲人が「人は社会性の生き物」だと喝破してますが、これは古今東西通用する名文句だと思います。
それに神々も神だからと言ってふんぞり返るのでなく、他利の為、我々の為に幽政に精を出しておられます。負けずに我々も頑張りたいですね。
以上、神棚拝詞の謹解でございました。