神道論

神話に見る民主主義の話

神道は専制政治の産物ではございません。

神代の統治の方法は直接民主主義の様相を持っていました。

神道は現在の政治システムと親和性があるのか、この点を考えてみましょう。

西洋との邂逅

日本は見る人が見れば神道を枠組みとした天皇と言う絶対者が支配する専制国家に見えます。

舌鋒鋭い方は日本は神道と天皇を押し頂いた君主制を敷くアナクロジーな国と言うかもしれません。

しかし、そんな時代錯誤な国がどうして幕末から明治時代にかけて西洋的な知識を使いこなし所謂列強の仲間入りを果たすことが可能になったのでしょうか。

チョンマゲをしていた人たちの中にも西洋を礼賛し公用語を英語にしようとする人もいましたし、民主主義や憲法等の言葉に敏感に反応する日本人も少なからずいました。

これは進取の精神があったからにほかなりません。

神道はこの進取の精神を培養する日本人の思想の基底を為していたのです。

つまり、神道が時代錯誤なのではなく新旧を調和させる様な思考の枠組みを神道が提供していたともとれるのです。

例えば民主主義は、戦後からはじまったと言う理解は誤りで、実は明治時代から日本では取り入れられていました。

これだけでも天皇の下、ショーヴァリズムの空気が日本に溢れていたわけでなく西洋的知識を吸収できる進取の土壌(或いは民主主義の土壌)を持っていたことの証左なのです。

神話に見る民主主義

神話を専制政治の賜物とする方々にとっては意外かもしれませんが、実は日本の神々が民主的な意思決定をする場面が語られています。

古事記や日本書紀には、「天安河原(あめのやすのかわら)」で「会議」をした記述や大祓詞のには「神集へに集へ給ひ。 神議りに議り給ひて。」等の記述があります。

高皇産霊神(タカミムスビノカミ)や天照大御神(アマテラスオオミカミ)が絶対的存在なのであれば、神々を集めて物事を決める必要もありませんし「天安河原」と言う集会場所も登場させる必要はありません。

沢山の神々を集めて最善策を練る、或いは多数の者が意思決定に関わったとの表記はなんとなく(直接)民主主義的な香りが感じられますよね

衆議一決の失敗も見越している日本神話

民主主義的な手続きが正しいとしても、その判断が結果的に間違っていたり、失敗してしまう事も神話には記されています。

闇雲に特定の制度を絶対化すると手段と目的がごちゃ混ぜになることがありますが、日本神話はそう言った混乱も予見している感すらあります。

民主的手続きを踏んでも絶対は無いんだよ?と教えてくれているんです。

神々を集めて葦原の中つ国を平定する為に誰を遣わすか決定すると言う話があるのですが、神々は衆議一決「天穂日命(アメノホヒノミコト)」が優れているとのことでこの神を遣わす事に決定。

しかしながらこの神は、葦原の中津国の神に媚びて戻りませんでした。

ちなみに、 再度「天穂日命(アメノホヒノミコト)」 の子「大背飯三熊之大人(オオソビノミクマノウシ)」を遣わすも音沙汰無。

もう一度、 高皇産霊神を議長として再度神々を招集。

話合いの結果「天稚彦(アメワカヒコ)」を行かせることになったのですが、なんとこれも大失敗。

色んな神々の知恵を集めて民主的に物事決める。

この手続きは良いのかもしれませんが、必ずしも最良の結果は得られないと言う教訓が示されているのです。

しかし、神々もたくましい。

もう一度会議を行って「経津主神(フツヌシノカミ)と建御雷之男神(タケミカヅチノカミ)」を向かわせ、ようやく目的を達成することができたのでした。

少し話がそれますが、失敗しても挫けず最善策を何度も考える忍耐力とそうまでして未開の地を探索しようとする進取の意気は尋常じゃありません。

人間に対して目標達成する為の心構えを神々が身を以って教示してくれているように感じます。

さて、衆議は失敗する→失敗するけど皆の知恵を結集させる事は良い→ではこの方法で成功するまで粘ろう。

もし上記の考え方が日本民族の神話意識(潜在意識)として備わっているのであれば、民主主義を政治的決定手段として、すんなり受け入れられたのも不思議ではないですね。

日本神話により民主主義を評価するならば、手続きを踏めば絶対に成功すると言うことはないが、最良の政策決定の方法であることを示唆しているのです。

上記の民主主義の例を踏まえ、西洋の知識を入れて、伝統智を排斥するのではなく、日本の伝統の中に、或いは神道等の民族意識の中に西洋と似たような価値論を見出す。

こちらの方がアデンティティーの健全性を保ち尚且つ外国で生まれた普遍的な価値体系を日本に根付かせるには良い気がします(日本的な物を全てなくして外国の知恵を無条件に取り入れたら良いと言う考えもあるでしょうが、それは決して根付かない)。

この霊を持ち出して伝えたかったのは、それは神道は新旧の接着剤となっていると言う事です。

神道が排他的民族主義の片棒を担いでいると言う評価は、とんでもない誤りと言わざるを得ない。

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神道は新しい価値観と親和性を以って並存できるのか、本記事と似たような目的で書いた「神道はグローバリズムをどう考えるべきか」と言う記事がございます。見て頂ければ嬉しいです。

神道、特に神話においてはその最古の有様を伝えてくれる。

そうであるが故に人間(生き物)の不易の原点を発見し、その原点に基づく国家や社会、個人への視座は実はとんでもない価値があるのかもしれません。

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神田 哲拓
神田 哲拓
神道ブロガー。神道研究で得られた智慧の共有をモットーに、神社や神道記事を執筆しています。 神社大好き人間(神社検定壱級)兼 大家さん(現在戸建1戸+宅建士)兼 サラリーマン。 神道研究とフォルクローレに没頭したい。あはれ、 あなおもしろ、 あなたのし、 あなさやけ、おけ。我が信ずるところに従いまして言の葉を紡ぎます。
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