
清明正直については 「清明正直ー神道の倫理観ー」 で概観したのですが、その続き。 日本神話の一説を参考に徳目の序列について述べます。
天岩戸神話
清明正直の序列について、何が最も尊重すべき徳目なのか、あるいはそれを上回る価値観があるのではないかを考えたいと思います。
そのヒントが日本神話における天照大御神の天の岩戸にお隠れになる話にあると見ています。
天照大御神は素戔嗚尊の乱暴ぶりに嫌気がさして、岩戸に籠られ、その為に世の中の光と秩序が失われてしまい乱れはじめます。
これを憂う神々が知恵を絞り、天照大御神を岩戸から出て頂けるように頑張ると言う日本神話の一説です。
高天原が暗いにも関わらず、鶏が鳴いて、神々が大笑いしている。
それをあやしんだ天照大御神は外の様子を見るのですが、その時に他の神様が鏡を取りだします。
天照大御神は、この鏡に映った自分を別の新しい尊い女神がお出ましになったのだと勘違いし、驚いてしまいました。
その隙を見て、力自慢の天手力男命が天照大御神の腕を引っ張って、岩戸から外に連れ出してしまいました。
そうして、世界に光が戻り一件落着なのですが・・・。
悪く言えば天照大御神を勘違いさせた話、神々が一計を以って嘘をついたと言う内容でもあります。
嘘も方便 秩序と個
嘘をつく事、それは清明正直の特に直くの徳目(特に直き心)に反すると思いますが、天岩戸神話はこれらの徳目を反故にしてまで重要視した価値基準を教えてくれています。
まず清明正直は、個人、個我の倫理であると考える事ができる。
岩戸隠れの一説は嘘をついてでも(個人の倫理観を犠牲にしてでも)天照大御神を岩戸から連れ出しその威徳が安定する事、即ち平和、秩序の復元を優先しようとしたと解釈できます。
「私」の安定には「公」の安定が必須条件であるから、時として「公」が乱れている時には、「私」の徳目の実践は後回しになるのです。
神々が公の秩序の回復のために、清明正直の実践をせず、「嘘」をついた事をあえて古事記は伝えている意味がここにあります。
但し、「私」は無制限に侵されてしまって良い事にはなりません。
滅私奉公と言う言葉がありますが、「公」の為に「私」(個人)が、どうしようもなくなるまで締め付けられ、その自由が完全に奪われてしまえば、「公」の秩序を支える「私」(個は「公」の重要な構成要素)の力が発揮できず結果的に秩序、「公」も崩壊します。
これでは本末転倒です。
「私」が輝くための徳目、産霊を実践できる様な公正な自由を提供するのも「秩序」「公」の大きな役割と言えます。
「私」と「公」補完関係であって、個人主義や全体主義どちらか一方に肩入れして、一方の価値を否定することは誤りです。
清明正直 再考
上記の通り上位規範として、秩序と平和の維持があるとするならば、清明正直の互いの関係はどう据えるべきか。
「清明正直ー神道の倫理観ー」 を参照しながら考えていただくと便利です。
まず、個人の倫理としてこれらを考えるわけですから、神道が個人に望むあるべき姿が念頭に置かれます。
「公」(国家)であれ「私」(個人)であれ、神道は発展、弥栄、産霊を望みます。
そうであるから。個人も主体性を以って自分の志を実現することが肝になります。
これを軸に考えれば清明正直それぞれの徳目の位置関係も見えてくるのではないでしょうか。
産霊を発揮するにはどうするのかをベースに考えて解釈して行くのです。
何故神道は弥栄を目指すのか。
そう言った世界観を考える事は組織神学において神道原論を導き出す重要な作業です。
組織神学はあらゆる物事を神道的に解釈判断するうえで基本となる大変重要な概念です。
詳しくは「組織神学ー神道理解の地図ー」 をご参照ください。
<正>⇒まず、<正>を即ち自分の価値基準を打ち立て、こうあるべき、こうありたいを見出す。言い換えるならば志を立てる。
<清>⇒そして、この価値基準・志に純真に自分を従わせる為、その価値基準と相反矛盾する考えや物事を吸収止揚し(排除は次元が低い)、<正>をさらに純化させ、<清>とする。要するに、自分の<正>にすべての力を一本化できる様に自分と環境を整える(清める)。
<直>⇒清め抜いた自らの<正>に素直に従う。やり切れないのであれば<清>が足りないか、価値基準の立て方<正>に問題があると思い反省改善する。
<明>⇒自分の行動が自分の志と一致し且つその結果が出る。さらなる躍動を自分に期待する(自信がつく)事になり、次のステップに行く気持ちが弥栄と漲る。<天益人=個人>の活躍の理想的あり方。
この様に考えると清明正直は倫理徳目であると同時に自己実現の行程表とも言えるわけです。
私も自分の中にこの格率(自分に対する誓いの様なもの)を立てて、神々の弥栄、修理固成に参加したいと思っています。
貴方も自分の<正>を打ち立てて、自己実現と幸せを掴み取って下さい。
[…] 共同体が無いを罪と認識するのかも論点になろうかと思います。個人的に侵さざるべき倫理観には、「清明正直ー神道の倫理観ー」で述べたものがあり、公の基本として「神道と「公」「私」ー清明正直再考ー」の拙稿をご紹介したく思います。 […]