
お金持ちになりたいとの祈りは、豊作を願う気持ちと本質的に同じ、本来は否定すべき事ではないと思います。
神道はお金儲けに対してどのような評価を与える事ができるのか考えて見たいと思います。
日本人はお金儲けを悪い事と感じる?
感じる必要はないのが結論。バリバリ稼ごう!その理由をまずは一般論から考えて見たいと思います。
「清貧」と言う貧乏をポジティブに捉える言葉がある様に、我々は貧乏であることは決して悪い事ではないと考えています。しかしその逆、金持ちであることに関しては良い印象を持ちません。
我々が接する映画やドラマ、漫画等では金持ち=権力者=悪者の構図で描かれることが多く、作り手も金持ちをどこか悪者にしてしまう心理があるのか、それらエンターテイメントを楽しむ我々も、金持ちは悪であるとの印象が刷り込まれています。
まず貧乏について考えますと、貧乏は清く正しい理想的な状態ではなくて成功への過程で耐えるべき修行の時間と思わなければならないと感じます。
貧乏だったけど大成した偉人の話を例にとりたいと思います。勝海舟のお話です。
勝海舟はお金が無さ過ぎて、当時オランダ語を勉強する人には必要だった『ドゥーフ・ハルマ』と言う蘭和対訳の辞書が買えずにいました。勝はこの辞書を商人から賃借し2冊分書き写して(3,000頁あったらしい・・・)、1冊自分用にもう1冊を売って借り賃に充てたそうです。
また薪を買うお金が無かったので、柱を削ったり縁側の床をぶっ潰してご飯を炊いたとも伝えられています。
この話を聞くに、貧乏に耐える偉人の姿に感じて貧乏は素晴らしい!と思ってしまうかもしれません。
そうではではなく、貧乏だけど勉強して偉い人になった、貧乏でも「志」にしがみついたと言う部分に焦点を当てる方が自然ではないかと思います。
貧乏でも人物になる努力を怠らなかった事、それがこの話の教訓と据えるべきなのです。
そうであるから、あの勝も貧乏だったんだから、貧乏が素晴らしいとの解釈はおかしいわけですね。
自分が貧乏であることの正当性を担保する為に偉人の貧しさを持ち出したりする人がいらっしゃいます。これは、話の本質を理解できていない事になるのです。
しかしながら日本人は自分がお金持ちになる事への抵抗はあるのかと言えばそうではない。
昔話でも良くあるパターンで「花咲か爺さん」の話や「おむすびころりん」は、結果的に道徳的に正しい行いをしたお爺さん(善人)が褒美をもらったりお金持ちになる話で、お爺さん達はこの報酬を拒否するような行動は取っていません。
報酬を拒否するような後日談が付け加えられずに今日までこれらの話が伝わってきたと言うことは裕福になることについて、日本人の深層意識からして正当な報酬であればそもそも拒否反応が無いと言う事です。
「自分」が儲ける事は別に抵抗が無い。では何故お金儲けがネガティブな印象を持たれるのか。
これは単純に「他人」が儲ける話は面白くない、僻んでしまうわけです。
金持ち喧嘩せずで、「自分」が稼いでいたら、「他人」が稼いでいても、その他人を貶めたい等ネガティブな感情は起こりにくい。せいぜいライバル心が掻き立てられるだけです(ダークサイドに堕ちる人もいるでしょうが、例外はつきものです)。
人より努力して人徳や学識、スキルや芸術を極め財を為す人は一握り、大勢は途中で努力を忘れて現状維持に甘んじ、異性や娯楽、レジャー等にお金を使ってしまいます。
努力できない人達は大切な時間を浪費し、結果的に財を成すに至りません。その大勢の人たちが世論を形成するのですからお金持ちへの僻みがいつの間にか=お金持ちは悪と言う考え方が導かれて行くのも自然な流れだと思います。
私も大勢の中の一人で、お金持ちを僻まないでおこうと思うのですが、努力するより僻んだ方が楽で、他者から共感を得やすいのでそっちに流される事が多いです。
まとめますと「お金儲けは良い」けども「お金持ちは自分より楽できて、贅沢なことできて腹立つ」、だから「そんなの不平等。お金持ちは悪い奴ら」、「お金儲けは汚い」、そして「努力するより愚痴った方が気楽」と言った具合でしょうか。
大勢の人たちが現状維持に傾く為に、お金儲けが歪んだ評価を受ける事は仕方ないかもしれません。
神道はお金儲けを肯定する
神道は弥栄、上昇史観です。これだけで神道が富める者に対する評価はどんなものか十分伝わると思います。
例えば、日本の神道は素朴な建築方法で贅沢を禁じている様なイメージですが、 「宮柱太敷立」、「高天原に千木高知りて」、大きなお社を形容する言葉も大祓詞に登場します。
大きなお家=資産の象徴です。質素倹約、清貧を旨とするのであれば、柱もそこそこで屋根の低いお家でもいいわけです。
そう言った記述ではなく大きなお家を建てました!と書いてある。
金運に纏わる神社はたくさんあり、特にお稲荷さんに参拝して「宝くじ当たりますように!」や「商売繁盛!」と祈ってもバチは当たらない。
それに神道では、豊作祈願が重要視されてる事に注目が必要です。
今でこそ初穂料として、神前にお供えするものは金銭になりましたが、昔は稲穂だった。
稲穂(食べ物)こそ太古においては、命を支えるありがたいもの。この豊作を祈るのはとても大事な事でした。現代では、お金を以ってこの稲穂(お米や食べ物)を買い、稲穂を育てている人たちにお金が渡る。
お金があればあるほどその量に比例して豊作を疑似的にであれ眼前に顕現させることができます。
日本人は豊かさを求め神と人の共同作業が行われてより幸せに、より上昇して行く事が祈りの一形態となっているのですから、古から伝わる豊作の祈りは、現代のお金持ちなりたいとの祈りとでは、豊かさを求める観点からして本質は変わらないように思います。
身もふたもない話ですが、お金があればこそ修理固成(畑を耕す土地が買える、トラクターが買える、肥料が買える、農業を学びに大学に行ける。全て尊い産霊の輝き)に参与できる。
持てる者の方が産霊を為して神道的生き方に近いとすら言えるでしょう。
但し!人騙したり、迷惑をかけて得られる豊かさは清明正直、三社託宣、穢れの考え方からして御法度なのは火を見るよりも明らかです。
お金儲けの場所となる社稷=プラットホームの破壊につながりかねません。社稷が破壊されれば、豊かさを求める道は閉ざされてしまいます。
世にはびこる清貧バイアスは穢れの一種だと思って根の国に返送してしまいましょう。
要するに貧乏という概念があるから富貴栄達する事の尊さがわかる。清貧と言う概念はそれまでの働きです。
清貧ならぬ清栄の心持で神々と共にガンガン豊かになりましょう!