
この記事では、SNS発展の副産物である「イイネ!」病(承認欲求の暴走)についてを神道、神話をヒントに考えています。
そもそも、承認欲求とは?その欲求にこだわる必要はあるのか等を考えてまいります。
神話に登場する承認欲求の物語
承認欲求とは、自分の事を理解して欲しい認められたい、大事に思って欲しいと言う人間に備わった欲の事を言います。
色んな欲望があるなかで何故承認欲求に取り上げるのか。
今はSNS時代、誰でもインターネットを通じて自分の意見を発信することができ、得てしてこの環境下では、この承認欲求に憑りつかれやすい。
承認欲求は他人に自分の評価を任せてしまうので、どうしても自分を見失ってしまいかねない危険な欲求で一度この欲に飲み込まれてしまうと精神的に苦しい思いをしてしまいます。
SNSの環境からは逃れられず、そのような精神的状態になると言う事は産霊の発揚の観点から言っても避ける方が良いと思った為、取り上げる事にしました。
さて神道は自らを神々の末裔とし、修理固成=弥栄=発展を重んじて、自分らしく生きる事を教えてくれます。
そしてこの神道の考え方に従えば、他人の評価よりもいかに自分の魂の欲求に沿えているかが大事であって、他人の評価は2の次なのです。
そうは言っても褒められたり、肯定されたりすると嬉しくなるのは仕方のない事です。
やる気につながったり自己成長の糧にもなりますので完全に消し去る必要はないと思います。
一見して神道と承認欲求は関係ないように思われますが、実は神話の中でそれらしい話が記載されているのです。
結論を言いますと神話のなかでも承認欲求はあまり良いものとはされていない様です。
天照大御神(アマテラスオオミカミ)、月読命(ツクヨミ)と並び三貴子と称され尊貴な神様とされる素戔嗚尊(スサノオノミコト)。
素戔嗚尊は 伊弉諾尊(イザナギノミコト)から産まれた神様で、伊弉諾尊 より海の世界を支配するように勅令を受けます。
しかし、素戔嗚尊は黄泉におられる伊弉冉尊(イザナミノミコト)を恋しがった為、伊弉諾尊はけしからんと思って別の世界に追放しようとしました。
素戔嗚尊は外界に旅立つ前に高天原を治める事になった天照大御神に挨拶に行こうと思い、天上に昇るのですが、天照大御神は武装して迎え撃とうとします。
挨拶に行くと言っても天に昇る際、国中が振動したと書かれていますので、挨拶と言うよりも自分の意見を主張したかった様に思います。
自分の意見を認めて欲しいから相手の事を考えずに荒ぶる。
これは承認欲求の体現と言うことができ。この話は素戔嗚尊の承認欲求が語られていると考える事ができます。
この行動に対する天照大御神は記載の通り武装して迎え撃つ姿勢をとりました。
あらゆる存在に愛や承認をもたらすはずの天照大御神がこの態度なのです、産霊の最高神をして一方的な承認欲求に対しては良い評価を与えていないと言う事になります。
承認欲求と自己成長の分離ー神話をヒントにー
天照大御神は素戔嗚尊の話を聞いて、誓約(うけい)を行う話になっていきます。
すなわち天照大御神は素戔嗚尊の承認欲求を一旦受け入れ、本当に自分の治める高天原を侵略しに来たのではないかその真意を探る儀式に入るのです。
我々が神社に行く時と言うのは承認欲求、もっと広くあらゆる欲望を心願成就と言うことで祈念いたします。
この事は、先の話の素戔嗚尊と同様に自分の気持ちだけをぶつけ認めてもらおうと拝殿に乗り込む様な失礼をやってしまっているのかもしれません。
我々も自身の欲求を神様にお伝えする場合、その神様との間で誓約がはじまるわけです。
お祀りされている神様の承認基準に適うのか、その神様に自分の欲を満たしたい動機背景や自分の欲を満たす事で問題が発生しない事を包み隠さず開陳するのです。
もっと具体的に言えば、弥栄を旨とされる神々の前で「これ以上、自分が幸せになりません様に」と祈った所で、心のどこかでこの欲求の承認は得られないとわかるはず。
意と形が矛盾しているからです。
そう言った状態であれば誓約は失敗し、神々との交通も途絶え(特に自分の中の神々)、願望成就に向かって心のエンジンが上手くかからなくなります。
神話では素戔嗚尊は天照大御神に何故か誓約が承認され、高天原で暮らすことになりましたが、素戔嗚尊は暴走を始めます。
この話、他人に認められると言う事と本人の実力や人徳、本当の自己実現とは引き離した方が良いと神道は教えてくれている様に思うのです。
承認欲求が満たされた素戔嗚尊のあの乱暴狼藉が記載されているからです(大祓詞に載っている天津罪とは暴走した素戔嗚尊の仕業とされます)。
自身の実力、自己成長とかけ離れ承認欲求が満たされると、自信過剰で調和を意識しない独善的な状態になってしまう。
神話には誓約の結果、素戔嗚尊の正当性が認められなかったパターンの記述はないです。
しかし、認められなかったと言う事は最も分かりやすい形で自身の欲望の実現(この記事では承認欲求)が否定されたわけですから、その実現のためにさらなる創意工夫、自己成長の必要があると言えます。
承認欲求が受け入れられた場合は実力が認められたのではなく、ただその欲求(名誉心も含む)を満たしてくれただけだと気を引き締め慢心を制し、
承認すらされなかった場合は、さらなる努力を行わなければならないと言う事が突き付けられたと解するわけです。
この様に考えると承認欲求を満たすことだけを目的としていまうと終局的な幸せに繋がらないのではないかと言う結論に至ります。
承認欲求が満たされた(他人の評価基準をクリアする)➡しかしその人物の本質的完成ではない場合がある➡承認欲求の消化は人格や神性の成長とは関係なくガス抜きの一法と言うことです。
神道的結論としては承認欲求に振り回されず、自分が自分に課した課題をクリアして人物を磨き世界の弥栄に寄与するミコトモチになるべきですと言う事になります。
本質的な部分が磨かれればそれに見合った産霊の力が身に付き、夢の実現(創造)が行いやすくなる事も忘れてはならないでしょう。名誉等の承認は、創造行為を行った事で得られる副産物、後付けのものです。
承認欲求は人生において2の次、3の次。承認されれば天狗になり、逆に承認されなくてもイライラしてしまう、この作用は本来どうでも良いものなのです。
他人や他人の評価に依存せず、自分の創造、産霊にエネルギー奉げる方が幸せな事だと思います。