
神社や神棚には鏡が置かれておることが多いです。
八咫鏡(ヤタノカガミ)で知られる通り、鏡は神道上でもただの器物としては扱わず、慎重に扱われれる存在。
この記事では神道と鏡について考えて見たいと思います。
神々を客観的存在として認識できるか
本題に入る前に、神道的意味で鏡をより良く考える為、神々を客観的存在として認識できるかについて整理したいと思います。
神々を客観的な存在として認識できる或いは認識できた経験については、説話や神話を見ればすぐに見つけることができます。
特に大物主神は我々と接点の多い神様で、目の前に現れ、お話しされます。大物主神の伝説やお祀りされている大神神社については「大物主神と大神神社ー神奈備三輪山ー」をご覧ください。
夢の中に現れたり、誰かの体に神が降りてこられ問答をした等、神様は客観的な存在として認識する事もできたようです。
但し自分自身が実際どんな方法を取れば神様を客観的に認識できるのかは大変難しい問題ではあります。
主体(主観)側の個性、考え方や能力(所謂霊視等)、環境に大きく作用されてしまう為です。
我々が拝殿にたって熱心に神々に祈りを捧げた時、或いは自宅の神棚の前で何らかの現状が起こった場合、神様の御業であるのか、それ以外の存在の悪戯なのか判然としません。
懐疑論的に言えば、神様の客観的存在を問うよりも人間はあらゆるものを客観的に認識できるのか、問題意識が神様の存在ではなく、自身達の問題(能力)へと変化せざるを得なくなります(有神論、無論神、色々言うけどそんなこと考えても人間は真実にたどり着けるの?と言った感じ)。
この様に哲学の森に迷い込んでしまいかねない状態は、神道の目指す「道」であるかはわかりません、迷っているうちに能力が開花する事も否定できないので。
神道のへのアプローチ方法は多様!「神道への接近方法ー3つの道ー」は、具体的な3つのアプローチ方法を紹介しています。
何だかんだと頭の良い現代人。
その様な懐疑論に溺れてしまいますし、それが冷静でカッコイイと思われるかもしれません。しかし、場合によってはこの頭の良さが苦悩の種になる事があります。
しかし、その様な言挙げのるつぼから抜け出す方法として、「鏡に映る自分に神々を見出す」方法があります。
客観的に神様は見られるのかどうか、グルグル頭で考える事から離脱したい際に、この考え方はとても有効です。
鏡を通して自身の中に神を見出す
我々が神社参拝すると奥に鎮座される神々と向き合う事になるのですが、決まって鏡が置かれています。
そしてその鏡を少しばかり意識すればそこには自分が映し出されている事がわかります。
勿論、物理的に距離が有ったり、鏡自体が小さくて自分が写っているか確認できない場合もあるでしょうが、写っていると想定してください。
この状態を考えてみますとあたかも自分に対して祈る格好になるのです。
鏡に映った自分、これは一つの小宇宙(大宇宙=アメノミナカヌシの神の一霊を受けている存在)であり、あらるゆ神々を内包する存在。
そして、その様な存在が写し出された鏡を見ると言う事は、神々と実際に対面していることになります(神々を客観的に認識すると言う事)。
鏡に映っている自分は、ぱっと見ると自分の形なのですが、実体は天之御中主神であり、厳密に言えばその一霊を見ているのです。
鏡に映った自身に二礼二拍手一例をすることでする事で、ひいては我々が小さな天之御中主神である事、そして小さな天照大御神(含む八百万の神)を内包している事など改めて認識することができます。
我々は神様の子孫であること、否、神そのものであることを自覚することで神々の道を歩む準備ができるのです。
これが鏡の持つ力の一つ。
キリスト教の様に、創造主と被造物として人とゴットとの大きな隔たりがある宗教では、鏡に映った自分の姿を神様であると言うことはできません。
外在する神様が実際に見られる様になるかは置いといて、まずは上記を意識して神社に参拝して無意味な懐疑論から脱出する事が信仰の第一歩だと思います。
三種の神器として鏡を見た時どの様な意味が見いだせれるのか「三種の神器と帝師「杉浦重剛」」でご紹介しています。