神道論

神道の「意」と「形」の関係論

神道では祭式の時など所作が定められているいます。

「二礼二拍手一礼」は聞いたことがあるかもしれません。

本記事では、心の内側とそれを表現する意味について、考えて行きたいと思います。

最後は記事流れから美容の意義にも言及してます。

見えないものを表すと言う事

神道はもとより、宗教の扱う範囲と言うのは目に見えないものがたくさん含まれています。

すぐに思い浮かぶのは神々。普通では目に見えないご存在です。

神々を認識するために、広い意味でお札であるとか御守と言った「神籬(ヒモロギ)」があり、鏡をはじめ神器と呼ばれる器物信仰の対象となるものがあるのです。

(別の記事でも繰り返し述べている通り、神々の客観的認識以外にも神人合一等、主観的認識を看過しているわけはありません。)

そしてもっと身近な例として、神々を仰ぐ気持ち、祈る気持ち、心も見えない。

もっと広く言えば「意」とする事は言葉や行動で表さなければ、自分以外の者には全く伝わりません。

そして、宗教的、生活的な事から少し離れ政治的領域に法律的領域に踏み込んだ例を我々は知っています。

義務教育の間に日本国憲法について少し触れたかと思いますがその中で勉強した天皇陛下は日本国の象徴であると言う事です。

保守的な方面から日本国憲法を考えるとその制定過程からして全くの無価値であると判断され、「象徴」と言う言葉も否定されかねません。

しかし、「象徴」は日本と言う殆ど概念に近い言葉を認識する為に不可欠な概念だと考えています。

天皇陛下を拝見するとそこに日本を視る事ができる。

この考えは神道的な視点から考えたとしても特に問題があるように思えません。

もちろん、スシ、テンプラ、フジヤマ等、日本を象徴する様な言葉もたくさんあるのですが、それらとは次元が全く異なります(何故そう言えるのかは、天皇と言う御地位の本質的理解に関わるので、本記事では割愛)。

上記の例を見るとわかりますが、目に見えない概念については我々はシンボルを通して認識する事が多いと言う事。

神道や宗教に限ったことでは無く、生活一般上無意識にやっているかもしれない。

従いまして「意」を汲む為には、「形」は重要な要件の一つではないかと言う結論になって来るわけです。

以心伝心は「象徴」を媒介とせず、物事が伝達される不思議な働きですが、この事についてもこの記事では割愛致します。

神道の「意」と「形」

清明正直をはじめ、産霊を行う際のいざ、やろう!と言う心意気、そして神々への奉賛等、神道は、心の在り方についてたくさんの示唆を与えてくれます。

これらは、「意」を整える事であり必要な事ではありますが、神道の追及で得られた「意」も、当然に目に見えない為、上段の例と等しく表現される必要があるのです。

(表現すれば、表現に触れた人や物が影響を受け、時には共感してくれたり、援けてくれることがあります。)

神道上この表現が、「二礼二拍手一礼」等の作法であったり、服制や社殿の外装、内装等の御装束に繋がる。

威儀を整えるのはもちろんですが、意の表現と言う意味で作法装束は真価を発揮するわけです。

さて一般的に、鳥居から拝殿に至るまで真ん中を歩いてはいけない事になっております。

理由としては一説には神々がお通りになるからと言われています。

神々を畏む「意」の表れとして、敢えて真ん中を避ける「形」式を踏むのです。

ただ単に、作法だから「形」だけ行っても、外見上威儀は整うのでしょうが、「意」と通っていなければ、あまり意味が無い様に思います。

「形」の難しさ

ここで論点と申しますか問題提起として、「形」はどうあるべきかの難しがあります。

上記で言うと、神々を畏むが故に、自分は正中を避けると言うのは「形」として大変分かり易い。

分かり易い故に、一般化しやすいのですが、「二礼二拍手一礼」は何故、「二礼二拍手一礼」なのか。

合掌ではない所以が良くわからないのです。

柏手一つとっても、貴人や神々に対して行っていたから、その慣習で社頭で打っている。

だから神様を尊ぶと言う「意」と上手く通じていそうでなんとか理解できます(懐疑的になれば、何故手を打つことが貴人を尊ぶことになるかと言う事も考えたくなりますが)。

しかし、右手を左手から少し下にずらして打つ、二拍手ではなく、四拍手や八拍手する事もあるのです。

「意」と「形」の関係が明瞭なものならば良いのですが、何故そうなのかは本当に研究を重ねないと腹に落ちないのです。

そうなってくると「意」に対応していない「形」をやっている可能性もでてくる。

これにまして、神々と合一したとされる主観的信仰を持つ方々の中には、「正中は人間が勝手に決めたもので神様はそんな事気にしていない」と言うご意見をお持ちの方もいらっしゃいます。

そうであれば、ますます「形」について混乱が深まってしまいます。

「意」を表現する為の「形」と言う原則に立ち返れば、形も尊重する必要性は、神々の表現である御神札やお守り、シンボルを不適当に扱ってはいけない事からも当然だと思います。

一応の答えとして

最終的な「形」の決定は何によるべきかは難しい問題です。

今ある作法について、一旦、決められた作法を認識しその理由付けはこれまでの斯界の研究成果と突き合わしながらご自身の中で確立された神道観、世界観による理由付けを行っていくしかない。

それこそ直接神々にお尋ねできれば良いのですが。

「伝統だから」と言う便利なマジックワードはここで使ってはいけないと思います。

かく意があって、かく理由があり、かく作法を行う事によってかく意を表す。

(畏む気持ち表す為、神々の交通の邪魔をしない様に、端を歩く事で、畏む気持ちを表す。)

この理由の部分を「伝統だから」にしてしまうと、「意」と「形」の媒介が上手くできず、実際に作法を行う人の「意」の認識が「形」にのってこないからです。

この難しい問題の解決のヒントとして、神社本庁の階位検定試験の科目に「神社祭式同行事作法」があるのだと思えば、勉強の意義付にもなるかと思います。

思えば、「意」を「形」にのせるのは、日常生活でも修行できる事。

美容やファッションは、代表的な例。

美しく、かっこよくありたいと願う気持ちがあって、勉強してお金をかけて容姿を整えている人たちは、「意」と「形」の修行をしながら産霊をやっているわけです。

対神々に対してだけ「形」を整えるだけでは足りず、他人も神々であると言う神道の原則に立ち返れば、他人に不快に思われない様に容姿を正す事も修行かもしれません(これは本当に私が無頓着、面倒くさいな分野で、本記事を書きながら反省している所でございます…健康の観点からも運動しないといけないですね)。

昔の貴人が剛装束を開発して、折り目正しく過ごしていた様に、私も装束や見た目、作法の研究修養も頑張って行きたいと思います。

ABOUT ME
神田 哲拓
神田 哲拓
神道ブロガー。神道研究で得られた智慧の共有をモットーに、神社や神道記事を執筆しています。 神社大好き人間(神社検定壱級)兼 大家さん(現在戸建1戸+宅建士+管理業務主任者)兼 サラリーマン。 神道研究とフォルクローレに没頭したい。あはれ、 あなおもしろ、 あなたのし、 あなさやけ、おけ。我が信ずるところに従いまして言の葉を紡ぎます。
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