神道神学

神道の世界観ー高天原と根の国と中津国ー

これまで普通に生活していても、高天原や根の国(黄泉の国)と言った言葉くらいは聞いた事があるかもしれません。

高天原や根の国は、天国と地獄と言う意味合いは実のところ無くて、思弁哲学に近い神道信仰の結晶、神道の考え方を示す大事な概念だったのです!

組織神学と応用神学 若干の復習

神道の世界観は、すでに神道神学(組織神学)の到達点として、時間軸において上昇史観と言う世界観が発見されています。

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組織神学については別の記事にまとめています。参考にしてみてください。「組織神学ー神道理解の地図ー

組織神学は人・神・世界の3つの要素で神道を理解する試みで、神道の世界観はこうであるから、この現象は組織神学上(神道神学上或いは神道上)、この様に言えるのではないかと言う風に、この世界で起こる現象を分析して行く事ができます(応用神学)。

例えば、キリスト教の人間観と神道の人間観が良く比較されますが。

キリスト教では、人間は被造物で且つ原罪を負った存在、救いは天主の思し召し一つ。救われる人間になるべく天主の意に沿った生き方をすると言うもの。

方や、神道の場合は神々の末裔でありそれぞれ一霊(天之御中主神のワケミタマ)を持ち常に活動の主体であると言うものです。

この相違から、キリスト教の人間観で言えば倫理的に生きる事が強調され、神道の人間観だと、進取的で活動的に生きる事が強調される。

この様にその宗教が持つ人間像を打ち立てて、色々な現象を考察する際の基準とするのです。

元来、神道は祭祀の中にその宗教的意義を見出してきた経緯があり、キリスト教の様な教導的宗教と比べて、誰かを説得する様な理論武装が弱いと言う事実があります。この点を補強する意味でも組織神学の研究は有意義なのです。

今回は、人・神・世界の中から、世界観の理解を深めて行きたいと思います。本記事は抽象度がかなり高いので、理解していただける様に今後も加筆修正する可能性があります

高天原 本質と無限の世界

神道学者筧克彦によれば、高天原は「明」しかない、即ち本質しかない世界。

例えば、私も読者様もそれぞれ個性があり、名前があり、また体があります。そして私も貴方も抽象化すると「人間」と呼称できます。

本質は人間であるからそう言えるし間違いではないのですが、話の中でAさん、Bさんではなく、「人間は」とか「人間が」と主語の抽象度高くなると、AもBもCもDも~Zも人間なので無限の解釈ができてしまい理解できない事が多くなります。

「人間」は「動物」でもあります。本質ではあるものの突き詰めるとさらに抽象度が増します。

本質を突き詰めて行けば、掴みどころが無くなるのです。

高天原は本質的であって、抽象的で且つ具体性が伴わない世界と言う事になります。

もう一つ例にとれば、例えば自分は「リンゴ」を頭の中で考えているが、度忘れして名前が出てこない。そこで相手に「あの果物」と伝える。相手は「何の果物?」と聞き返してしまうでしょう。果物と言われるとそれこそ記憶以外にネット検索すれば無限に選択肢は広がるからです。

高天原は果物と言う本質は伝わるけれどもそれが有限化せず具体的な「何」が特定できない世界なのです。

我々一人一人に備わっている進取の精神や愛する心を「高天原」の世界で呼称するならば天照大御神になります。天照大御神と言われてもピンときませんが、「Aさんが子どもを思う気持ち」だと具体性を伴わせれば、なんとなく理解できると思います(「愛」自体がすでに抽象的な言葉ですが)。

高天原が何故「明」なのか、理由は定かではありませんが、無限の広がりのイメージが明るさや喜びの感情が伴うからかもしれません。

日本人は、長い信仰生活の結果、眼には見えないがこの様な世界がある事を発見したのです。

根の国

こちらは「暗」しかない世界。

有限なもの具体的なもので溢れている世界とされています。それだけを聞くと、高天原に比べて理解しやすい世界かな?と思うのですが、有限なものがごちゃ混ぜで収拾がつかない世界なのです。

例えば高度に抽象化された言葉として「物」がありますが、「食物」「動物」「無機物」等があってさらに具体的に分析して行くと無限に様々なものが考えられます。

根の国は有限な形即ち具体的な状態なものが無数混在していていて何が何なのかわからない混沌とした世界なのです(もちろん物質だけでなく感情も含まれています)。

例えば、植物の知識(高天原)が無い人にとっては、山に分け入りキノコが沢山ある状況下(根の国)で、何が食べられるキノコで何が毒キノコかわからない。そんなイメージです。

善悪関係なく有限なものがすべてある感じ、理解できな不明瞭な世界=暗い世界です。

中津国

中津国は我々が今生きている世界の事。

「明」も「暗」も含んでいる世界です。高天原と根の国の間の世界。そのままです。

現世(ウツシヨ)と呼ばれたりしますが、高天原の本質的かつ抽象的な明の要素を根の国の無数にある有限な暗の要素を以ってこの中津国に映し出す(現す)。そのような意味があります。

この世界には高天原から高度で抽象的な要素が、根の国からは有限で具体的な要素がどんどん送り込まれています。

例えば「家」を想像してください。想像するだけに留まると「家」は実体を伴わない概念のみの言葉になってしまいます。高天原から干渉を受けているだけになります。

しかし、根の国から送り込まれてくる具体的存在、「樹木」を見つけてこれを柱や、屋根、床等の建材として加工し、組み合わせると実際に家が建ちます。

高天原からは家の設計図を根の国からは材料を調達したことになります。

もう一つ例えるならば、鬱蒼とした山がある。これだけ見ていると何をどうしていいかわからない。これだけならば、根の国から一方的に干渉されているだけなので価値はないかもしれない。

しかし、高天原から送られてくる「林業」であったり「鉱業」等の抽象的概念を用いれば、根の国に汚染された(困惑させられる)状況を祓って、鬱蒼とした山は産業を興す宝の山になるかもしれません。

手の付けられない山が「林業」「鉱業」と言う抽象概念を現す具材になると言う事です。

天原と根の国から無限に供給される概念と材料によって事物が複雑に高度にどんどん現れて行く中津国は現世と呼ばれ、また葦がどんどん生え揃っていくように栄える様から豊葦原中津国(とよあしはらのなかつくに)とも神々から尊称されるのです。

これは天壌無窮の神勅から導き出される上昇史観と言う世界観とも一致していますね。

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日本書記にかかれている神勅は組織神学を研究する上で重要であるだけでなく、国家の運営方針を考える際にも様々な事を示唆してくれる神道の基本的要素になるものです。天壌無窮の神勅については、「五大神勅ー日本の礎ー 総論及び①天壌無窮の神勅」をご参照ください。

この様な中津国に生きる我々。

時々根の国の干渉にだけ目が言ってしまい(具体性を伴うので仕方がないけど・・・)、悩むこともあります。しかし我々は天益人として弥栄を行う主体ですから極まる所なく神々から祝福されている。常に高天原から光がもたらされているのです。

こう考えると神道って哲学的じゃねーかって思いません?考える材料は神話にも、これまでの先達の書物にも無数に転がっています。祭祀の中に全てが包括されていると言えばそれまでですが、頭で理解して行う祭祀はもっと奥行きのあるものになるかもしれないと、常々感じております。

ABOUT ME
神田 哲拓
神田 哲拓
神道ブロガー。神道研究で得られた智慧の共有をモットーに、神社や神道記事を執筆しています。 神社大好き人間(神社検定壱級)兼 大家さん(現在戸建1戸+宅建士)兼 サラリーマン。 神道研究とフォルクローレに没頭したい。あはれ、 あなおもしろ、 あなたのし、 あなさやけ、おけ。我が信ずるところに従いまして言の葉を紡ぎます。

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