
死と穢れは、神道における死生観に関する大変重要な問題です。研究のとっかかりとして本記事を執筆いたしました。
神道における死と穢れ
神道では身内に不幸があった場合は、神社に参拝してはいけないと言われます。
この事は、神道が穢れを嫌う事に基づく考え方です。
穢れとは何を指すのかは大変難しい問題ですが、神話においていくつか見受けられます。
伊弉諾尊(イザナギノミコト)が、死んでしまった伊弉冉尊(イザナミノミコト)を追って、黄泉の国に行った時、穢れたことを意識して筑紫の日向の橘の小戸の檍原で禊を行います。
伊弉諾尊は、死そのものと死後の世界を経験しこれはまずいと思ったわけです。
また、死=穢れであることをさらに協調した話が、阿遅志貴高日子根神(アジスキタカヒコネカミ)の話です。
親しくしていた天若日子(アメノワカヒコ)がある理由で亡くなってしまいます。
それを弔いにやってきたのですが、 天若日子(アメノワカヒコ)の家族が、なんと
阿遅志貴高日子根神(アジスキタカヒコネカミ)が天若日子(アメノワカヒコ)蘇ったと勘違いしてしまいます。
この勘違いに怒ってしまったのが阿遅志貴高日子根神(アジスキタカヒコネカミ) 、「死人と間違えるとは何たることか!」、天若日子(アメノワカヒコ) の喪屋を破壊してしまいます。
神々は死は穢れであってこれを極度に嫌っていることが窺える話ですね。
穢れの正体 穢れとは何なのか
この様に死は穢れであると考えられる話がでてくるのですが、穢れとはそもそも何なのか具体的な説明があるわけではありません。
死とは産霊(ムスビ)の力を発揮できず、一霊(魂)によって一つの一つの細胞が結ばれ一つの生命体として活動していたものが、一霊が体から離れる事でバラバラな状態に離散してしまう事。
このために、肉体を通して触れていたその人の人格に触れられなくなる、別れであってとても悲しい事です。
この別れの悲しみに包まれたとき、自分自身の生産力、人格も発揮できず暗い気持ちで何も手が付けられなくなります。
阿遅志貴高日子根神(アジスキタカヒコネカミ)の話で言えば、全く生産活動が行えない状態つまり死人と同様にされたことで怒りに覆われ、 破壊活動を行っています。
これ等の事から、穢れの正体について迫ってみたいのですが、穢れは悲しみや怒り等ネガティブな状態に包まれてその生命の活動エネルギーが塞がれたり、暴走してしまうきっかけ或いはネガティブの感情そのものであると考える事も可能です。
血(月経時も含む)も穢れの一種とされますが、我々は血を見た時にはあまり気分の良いものではないですので同じ理由から、即ち気持ちが塞がれて産霊を発揮できなくなる為、穢れとされているのかも知れません。
しかしながら血については、伊弉諾尊(イザナギノミコト)が、伊弉冉尊(イザナミノミコト)が死んでしまう原因となった軻遇突智(カグツチ)を斬った時にその血から新たな神々がお生まれになっています。
この事から血そのものは、生命の象徴とも言えるのです。
血そのものは穢れではなく、血を見ることで想起されるネガティブな感情を穢れと言うのではないかと考えます。
生命の根源たる血ですらネガティブな感情、穢れを産む側面を持つ。
これを抽象化して言えば、神羅万象ことごとく穢れを含んでいると言えます。
例えば、犬を見るとある人はかわいいと思う人かもしれませんが、牙を見ると恐怖を感じて動かせるはずの身体が動かせない事もあるでしょう。
可愛いと言う産霊の要素の一つと、恐怖と言う穢れを生じる要素がワンコにも備わっているのです。
逆に穢れの最も象徴的な死を文字通り生産能力の停止と視るか、神化される芽出度い事だと考えることもできる。
万事、産霊と穢れは表裏一体で、禊祓とは即ち物事の悪しき部分を除き良き部分を洗い出してこれを用いようとする作業という事ができるのかもしれません。