
一つ(全体)対多様性(個)の議論については神道でどう解釈すべきでしょうか。
「国際的だから」と言う文脈を伴う意見に対し無防備に受容してしまって良いのかと言う観点からも本記事は参考になると思います。
グローバリズムと言う言葉の用例と似非グローバリズム
昨今、色々なニュースや言論人の発言を見るにつけ、その主張内容の正当性を担保するために、「国際的な流れ」や「グローバリズムの中で」が付け加えられる事があります。
そこには、人間と言う共通属性を根拠に、「人類皆兄弟」、国や国境、民族なんて関係ないんだとの思想が根本にあると考える事ができます。
要するにその国や民族特有の事情や条件はそれぞれの集団の独りよがりであると。
この様な考えは耳に心地よく、取っつきやすい。
そして平和(一般的に言って絶対的価値判断)とも結びついて最高の規範・思想と位置付けられて、この言葉を使えば相手を黙らせることができます。
一見すればこれは正しい事だからです。
しかし、グローバリズムを隠れ蓑にして、多国籍企業(大資本)が利益を独占しようとする「経済的意味でのグローバル」と言う意味が隠されている事には注意を払う必要があります。
人類皆兄弟の裏側にはハゲタカの様な超大金持ちの野心が見え隠れしているのです。
例えば、発展途上国から安値で材料や商品を仕入れ、需要のある国で高値で売る。
或いは賃金の安い国で生産し、物価が高い所でその生産物を売る。
その所得はタックスヘイブンの国に本社を置いて税務処理すると言いった具合です。
富める者だけが富む不公平な状態でありフェアトレード等が叫ばれる理由の一つになっています。
上記は経済活動として認められるケースがあるにしても、インフラ(例えば水道事業)に関係する企業を安値で買い叩いて、暴利を貪ると言う事も起きています。
現状のゆるい世界秩序にあって、国や国境の概念が機能しなくなれば、ハゲタカの餌食になる国や地域は増えてしまうでしょう。
神道の見解
神道は(経済的乃至ハゲタカグローバリズムでなく)本来の意味でのグローバリズムの概念を持ち合わせています。
それを示唆するのが「天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)」と「一霊」と言う考え方です。
我々は基本的に実体のない「 天之御中主神 」を具体化した個体でありまして、個は 「天之御中主神 」 の「一霊」を受けた存在と言えます。
無数にいる個人は根本をたどれば「天之御中主神」に帰一すると言う事。
「 天之御中主神 」は宇宙 、「一霊」 は小宇宙と言い換える事ができます。この事については、「神道と幸福論」と言う記事にも言及しています。
語弊を恐れずにこれを今様に霊性な香りを取り去って言えば、我々は地球(もっと大きく言えば宇宙)規模で、生命の根拠を一つにする共同体であると言うことができます。
この様な神道の世界観は本来の意味でのグローバリズムと親和性が高いのです。
多様性を貴ぶ立場から
一(いつ)を根源とする考え方に沿うと、日本人も国家を排し地球レベルの共同体の一つとして生きていく事も神道神学上可能に見えるかもしれません。
しかし、この事についてはもう少し深く掘り下げて考えることが必要です。
日本は西洋から提案された価値観を受け入れられるのかを民主主義を材料にして、「神話に見る民主主義の話」にまとめております。この記事と併せて読んでいただければ面白いと思います。
一つの共同体と言うことになれば、政治思想をはじめ、言語や宗教、広く言えば文化も単一化されて行くことになります。
即ちある一個の価値体系にすべての地球人が帰属することになるのです。
もしこの価値体系が欠陥を有していて、共同体を維持できない状況になればどうなるか。
そうなればこの唯一の価値体系に従っている存在はすべて破滅へと向かう事になり、この世は地獄になってしまうのではないでしょうか(そもそも個人が生きる上で共同体なんていらないと言う考え方もありますが、ここではややこしくなるので考慮しません)。
しかし、ありがたいことに現状はそうなっていません。
それぞれの国家は言葉も違いますし、資本に価値を見出す国もあれば、精神性を貴び宗教の教えを国是とする国もあります。
価値体系が多様にある事が終末的な崩壊を免れる砦になっているのです。
それぞれの価値体系を基に国家が形作られていて、各国同士、互いの価値体系の影響を受け合いながら、国造りが行われます。
しかしながら多様性の中で影響を受けると言うことは即ちその国家同士の存在(価値)が矛盾していると言うことができます。
これをどう考えるべきか。
神道には矛盾(苦難)を乗り越えて新しい価値即ち新しい神々が産む話があります。
非常に抽象化されていてわかりいにくいのですが、「生」と「死」の矛盾から伊弉諾尊(イザナギノミコト)は三貴子を誕生させています。
矛盾は悪ではないと言う事。
要するに神道上、価値体系の矛盾或いは対立は、新たな価値を生む過程だと言うことができるのです。
そして注意すべきは、どちらか一方が自身の価値体系を自壊させれば相手の価値体系を受け入れ、矛盾や争いは起こらないと言う考え方。
この場合、多様性と言う概念が必要なくなるという事です。
Aの言うことを無条件で聞き入れてBがAになるのと、摩擦が起こってもAとBどちらかの価値を取り込んで止揚しCの価値を生み出す事とは全く異なる話です。
Cと言う新しい価値を生み出せる、これが多様性を認める根本的な意義でしょう。
このAに飲み込まれるのか、Cと言う新しい価値を見出すのかについてですが、古の日本人は 「天之御中主神」以外にも沢山の神々を見出してきました。
自身の存在を帰一させる神を見出した一方で、わざわざ多様に神々を見出してきたのです。
一の価値体系に帰一できるが、それにとどまらず多様に発展していく事が説かれているのです。
帰一のみに拘るのであれば、 神話では「天之御中主神」のみ語れば良いのですから。
これをグローバリズムに落とし込んで考えれば、「世界」と言う強力な存在(一に収斂しようとする強力な存在)は「天之御中主神」であって、大きく言えば国家、小さく言えば個人は八百万の神々と言うことができます。
神話では語られない国家や民族の役割についてですが、個人は小さな力ですので世界そのものに吸収隷属されやすい存在と言うことができます(Bの個が無くなり、Aになってしまう事と同義)。
国家(民族)と言う単位はこの世界と個人の中間に位置し世界の持つ強力な収斂力から個人を保護しているのです。
勿論、国家と個人の間でも個人の意見を尊重してもらうのは大変です(個人からすれば国家は世界の収斂力から身を守ってくれる存在ではありますが、国家の収斂力も脅威になり得ます所謂国と個人の関係論であって憲法学の言う自由権の議論が喧しい部分です。大変重要な議論だと思います)。
個人が国家の収斂力に対抗する中間に位置するのがが民族、部族であったり、「地域(地方自治体)」「家」等であって、これらも重要視する必要があります(余談ですが地方自治=中間団体の力を発揮する為の場所が神社だったのではないかと見ています)。
結論神道的に言えばグローバル化は認められますが世界対個人では発展(新しい価値の創造)の基になる多様性を担保できないので、その中間団体たる国家は少なくとも必要だと言う事です。
また「民族」、「部族」や「家」も弱めてしまうと、上位の収斂団体である「世界」と「国家」に飲み込まれ「個」が活きないのです。
そういう意味で「民族」や「家」もまた「個」を守る存在としてないがしろにできない。
神道は帰一(世界・1つへの収斂)と弥栄即ち国家や民族、家、個人の無数な存在の自由な発展、双方向を目指していると言えるでしょう。
これは、我々一人一人(A)微力でありながら、中間団体を通して世界(B)と向き合い(止揚の結果)新しい世界(新しい価値C)を創造することができると言う壮大な福音でもあります。
しかし、多様性がぶつかり合いながら最後にはどういったものが待ち受けるのか、そこまで神話は語ってくれていません。
完全究極な止揚の達成。
これを目標に修理固成を続行する。
中今を生きる我々に命じられた神々の神勅なのです。