
神道の意義付けや接近方法は人によって様々。
自分にあったアプローチ方法が見つかれば、神々の道を歩む準備ができている事になります。
貴方は神道に何を見ますか?
経験の追体験としての道
神道は宗教ではないとの観点から神道を見ることも可能です。
日本の文化と言う視点ですね。
しばしば経典がなく教義内容教える指導者もない。
即ち創唱宗教ではない事から日本民族が培ってきた儀礼慣習であるとされる事があり、日本人の経験知であると言う解釈です。
神々の成功談や失敗談から処世術を導き出し、日本人が時間をかけて磨き上げた教訓としての「道」を見つけ出すのです。
伊弉諾尊(イザナギノミコト)は見てはいけないと言われたのに、ついつい覗いてしまった。
その結果、伊弉冉尊(イザナミノミコト)との愛が失われたり、怖い思いをしました。
或いは、生きている神を死んでいる神と勘違いしてしまい、散々な目に合う話、「これは自分もやらないほうがいいなあ」と思うようなできごとが日本神話には結構出てきます。
神々が我々に先だって失敗した事を包み隠さず大らかに、素朴に神話として伝えてくださっているのです。
霊性や伝統と言って片意地はらず、失敗を回避する教訓として神話を見ても面白いと思います。
かみさながら=かむながらのみち
さらに踏み込んで、神の御心を自分の生き方とする、或いは自分も神であるとの自覚をもって生きると言う意味で神道を捉えることもできます。
高天原の神々は天照大御神(アマテラスオオミカミ)を至貴の神様としてお支えしておられ、天照大御神は伊勢の神宮に祀られている有名な神様です(現状最大の神社包括団体とされる神社本庁は全国の神社8万社を束ねる組織で、その本宗が伊勢の神宮とされます)。
御名からそのご神徳を考えれば太陽に近い存在であり、その光をあまねく、分け隔てなく注がれて、すべてのものを照らしておられると解釈できます。
人間の我々も天照大御神に倣って、平等に光を届ける存在にならなければならないと考える事ができます(この光が愛であるのか物・金銭であるのか、それともニッコリスマイルなのか、発現方法は色々あると思います)。
小さいころヒーローに憧れたり、偉人に憧れて同じ道を歩んでいく事と似ていますね。ああなりたいこうなりたいを神々に求めるわけです。
かみさながら、神様と同じ道を歩んで行く。
要するに人道的意味での神人合一、少しだけ神秘的な薫りがしますが、現代人でも分かりやすい捉え方だと思います。
しかしながら神々のご神徳、ご神格を理解しなければこの道を歩んでいこうとしても覚束ないものになります。
神話の他にも色々な勉強が必要なのです。
とは言うもののどんなに偉い神道学者でも最初は全くの白紙状態からスタートしています。
神道の素養が無いと悲しむ前に近くの神社の由緒書きや古事記を読むだけでもメジャーな神様の事はすぐに理解できるはずです。
知れば知るほど楽しくなるのは神道以外の勉強・研究にも当てはまる事ですね。
古事記を読むのと並行して由緒書をしっかり読むのは本当におすすめです。
神道の勉強は楽しいのです。
今難しいと感じていても楽しく感じる糸口はたくさんあります。「神道の楽しさー融通無碍ー」を覗いてみてください。
魂の解放としての道
もっと深い捉え方として、神道を神秘の世界に没入する道として捉えることもできます。
要するに非日常的なもの、例えば帰神法と言った生身の人間に神を降ろす事や神々との邂逅を果たす神秘体験等がそれにあたります。
有名なところで平田篤胤大人の神道関係書物は、超現世的で幻想小説を読んでいるかの様に大変刺激に富むものです。
異世界に行った事、神々と話をした事。
天狗の話、死んでから蘇ったりする話等とんでもない世界が広がっています。
そう言った類の話と言うのはどうしても主観的になりやすいので、この方面で研究を志す際は、注意深くなる必要があります。
盲信を排する為に客観性を養わなければならず、かなり勉強する必要があります。
主観的信仰を確かなものにする為に客観的な視点を身に着ける勉強をする。
迂遠な様ですが神秘的な領域は何があるかわからない世界である以上、できる限りの準備はしておきたいものです(例えば審神者と呼ばれる人は、降霊した存在を適格に判断するそれ相応の智識、見識が求められます)。
神道とはこう考えろ!と言う絶対的な基準がないのでアプローチ方法も様々。
神道の据え方によっては『古事記』や『日本書紀』の本文解釈も多様に分かれてくるでしょう。
ある人は教訓が書かれていると考え、ある人は異世界に行く方法が書かれていると考え、ある人は国家や民族の政治規範だと考えたり様々。
『古事記』(に限らず全ての神典の類)はその人を写す鏡と言われることがありますが、この事は神道や神話が多面的解釈に耐え得る底知れぬ力を持っている証拠とも言えるでしょう。
今回は3つの神道の捉え方を紹介しましたが、他にも色々考えられます。
神道との付き合い方を自由に選ぶことができるのは、神道が大らかで、ビシバシ注文を付けてくる絶対的指導者、教祖がいないお蔭かもしれませんね。