
神道の勉強をしようと思ってもどこから手を付けたら良いのかわからないと考えた事はないでしょうか。
このブログではそんな貴方に神道理解の参考になると思う情報をお伝えして行ければと思っています。
このブログを通じて神道への愛着が増せば幸甚です。
神道の難しさ 神社ブームによせて
最近、神社はパワースポットとして認知されてきました。
癒しを求めたり、綺麗な御朱印を頂戴しに神社に参拝される方が増えております。
少し大きな神社に行けば、老若男女たくさんの人で賑わっていて神社参拝がブームであることを実感します。
『乗り換え案内のジョルダン』調べによれば、初詣人出ランキング1位の明治神宮は例年317万人も参拝に訪れるとの事。
この人数からして、日本人が初詣を当たり前にしていることが理解できます。
パワースポットブームの影響で神社が観光地化しているとも言われたりもします。
ブームにのってまたは信仰と言うよりも習慣として神社参拝する事もあるわけですが、私も含めて神社や神道についてわかっているかと言えば、案外知らない事が多い。
中には熱心な方がおられて〇〇神社に行くのだから、少し神道の勉強してみようと思うかもしれません。
しかし神道に限らず、どんな宗教にも言える事かもしれませんが、勉強してみようと思って経典と呼ばれる様な書物を開いてみて目が点になる。
いわゆる教典を手にするまでは良いのですが、最初の頁から難解でつかみどころが無く、面食らってしまうのが普通なのです。
どうしてもその宗教に親しみを覚えるまで努力と時間が必要となるのです。
『古事記』はもとより『聖書』もそうですが、面白さを感じる「物語」の前に神々や預言者の名前の羅列が続き、どうも途中で萎えてしまう。
ですから「それでも関係ない!勉強しろ!!」と言われる様な環境に居ない限り、モチベーションが続かないのです。
現代は、特別な学校に行かないと宗教教育は一般的に受けられるものではないので宗教から離れてしまう一方です。
れは神道も例外ではありません。
微妙に距離感が出てしまっている神道と我々ですが、実の所、神道は日本の文化であり、伝統であり、日本人の霊性を賦活せしめる貴重な道である事を忘れてはならないと思っています。
少し込み入った内容になりますが神道を体系的知識に整理する上で、「組織神学ー神道理解の地図ー」がお役に立つと思います。
神道に対する具体的なアプローチ方法は「神道への接近方法ー3つの道ー」をご覧下さい。何故神道を学ぶのか動機付けに有用な記事かと思います。
神道の合理的と非合理的
様々な情報にアクセスでき沢山の情報に触れられる現代日本において、「私に神がおりてきた!!」をベースに展開される主観的宗教論は、原始的で妥当性のないものとの評価を受け、敬遠されそして理解されない可能性が高い。
文明の進歩に合わせて物事の妥当性をはかる基準が高くなっているからです。
神道も文明の進歩の渦中にあるとすれば合理的解釈できるように論理化ないし神学的体系化を行っていく必要があります。
腹で分かるよりも、頭で分からないと納得できなくなったのが現代人であり我々なのです。
つまり直感よりも頭脳を満足させられる論理体系が一先ずは必要なのです。
しかし、そう言った必要性がある一方で神道では言挙げを慎むことが言われたりします。
この字面だけを見ると神道の自由な解釈や神道的なものの論理化が禁じられてるように感じますが、この事についてはもう少し深く考えなければいけません。
聖なるもの
宗教は論理の体系化=合理化を行え得る一方、その合理化の正当性を突き詰めると大方、太古より紡がれてきた神話とそこで見え隠れする神秘性に基づきます。
神話や伝説で見え隠れするものは、存在するけどもその存在を確定的に証明できないヌミノーゼ(聖なるもの)と言われ、神学体系、神学論理はこれを全ての前提としている点で実証科学と異なる学問体系なのです。
このヌミノーゼをめぐる言挙げ(=論理的証明)は、実質的に不可能。
ヌミノーゼを提唱したオットー氏もヌミノーゼそのものを掴まえようとしたのではなく、そこから生じている現象を分析する事でヌミノーゼについて外側からその正体に迫っています。
少しオーバーな表現ですが、煙(現象)を分析して視認できない炎(ヌミノーゼ)を研究している様な研究方法なのです。
しかしながら、この宗教的な核心であるヌミノーゼを前提とし、そこから産まれてきた派生原理や価値観、我々に及ぼす精神作用、それらの個人的、社会的効能は整理する事が可能なのです。
要するに理解できるところは論理化できますが、できない部分は全くできないと言う事。
このヌミノーゼそのものを論証しようとすると地に足がつかない何でもありの状態になってしまいます。
これを言挙げと名付けてタブー化してしまったと考えられます。
神道は仏教等他の宗教とどの様に関連するのかについて、外国の研究者の考え方が参考になります。「『一つの聖なる道』神道と共存する宗教」に詳しく紹介しました。
しかしながら私は合理的に考えられる部分を整理理解して行けば、ヌミノーゼ=神道の核心部分に触れる事が可能になったり、ヌミノーゼと我々との隔たりを無くしていけるのではと考えています。
余談ですが、神道における大事な要素である、神人合一(ヌミノーゼそのものとの一体化)による神道の会得、すなわち、主観的宗教体験の存在する事は否定できないとも考えています。
とは言うものの残念ながら、神人合一の境地に達する行法を知る者は限られていて、実地にそう言った神秘を目にしたり自身が体験する機会はほとんどなくなってしまいました。
ヌミノーゼの解明、そして神道の会得。
それらがヌミノーゼのもたらす現象の研究成果によってか、量子学の研究によってか、個々人の霊的覚醒によるのか、はたまこのブログで受けたインスピレーションによって達成できるのかは誰もわかりません。
アプローチ方法はそれこそ人の数だけあり、夫々が神の道を歩んで行けば、いずれこの目的を達成すると考えています。
良く例えられますが、山道は沢山あるが、山頂は一つである事と同じです。
このブログでは合理的に理解できる部分(できそうな部分)の理解を通して、霊性的ひらめきの共有をさせて頂き、ひいては、神道に親しみを覚えられる様に、最終的には神人合一の境地に貴方と共に至れればと思っております。
[…] オットーの『聖なるもの』については、「神道を知るための序説」で触れております。 […]