神道論

神道上の罪と祓えー自律できない構造?ー

神道上の罪ー問題の本質ー

神道の神々は我々の事を甘やかしてくれます。罪や穢れをすぐにリセットしてくれるからです。だから精神的な自律は不可能なのではないかとの問題提起がされたりしています。

この事について、犯してしまった罪とその償いとしての祓えの観点から考えてみたいと思います。

この問題は私の座右の書になっている上田賢治著『神道神學』(103頁~104頁)で提起されています。

要するに、意識的であれ無意識的であれ犯してしまった罪や穢れは、例えば大祓祭などですべて消し去ってしまえる。

祓えば良いのだから罪や穢れにまみれても平気でいられる。これは信仰上ありなんですか?と言う事です。

保険に入ったのだから事故したり、病気になってもいいから放埓に過ごし、かえって危険な状態を招いてしまう事、即ちモラルハザードに似ていますね。

この事に関し『神道神學』では小野祖教氏の説を紹介しています。大要は以下の通りです。

小野祖教氏曰く罪や穢れは神の末裔たる我々国民は起こすべくして起こしていない(性善説)、外的要因即ち禍津日神のせいだからこの影響を取り除くために祓っているとの事でした(外部的要因説)。

この説が正しければ、罪の発生は自分ではどうしようもないと言う事になりますので倫理上の問題は起こらないわけです。

しかし、上田賢治氏もこの説明に疑問を呈しておりまして、 あくまで人間は、「中性」であって善でも悪でもないと述べています。

そして私も思うに大祓詞でも「天の益人(ますひと)らが過ちおかしけむ雑雑(くさぐさ)の罪事(つみごと)は」とある通り、罪穢れの我々自身の内部的要因は無視できません(少なくとも大祓詞の中に禍津日神云々の話が出てこない)。

言い換えるならば、禍津日神に勝手にそうさせられているのではなく、罪穢れを引き起こす主体は我々自身であると言えます。

そうであれば、罪穢れをそもそも起こさない様に身を修める事が神道信仰上求められても良いのではないか?と言う提言に繋がってくるわけです(+モラルハザードを防止する)。

穢れは罪を犯した事に対する罰ー管見ー

私は今まで罪穢れと書いてきましたが、実は罪と穢れは別のもと考えれば上記問題を理解する為の糸口になるのではと考えます。

罪は大祓詞で述べられている天津罪、国津罪ですが、穢れはこの罪を起こしてしまった作用として降りかかると考えるのです。

穢れの作用乃至穢れの状態の筆頭は罪悪感、後ろめたい時の精神状況は、何をするにもひっかかる。メンタルブロックの大きな原因になっていまいます。そんな状態では自分を自分らしく生きることはできず、産霊を輝かせることはできないでしょう。

次に社会的立場や周りの人間との関係性の悪化です。所謂サイコパスと呼ばれる人は、そもそも罪悪感すらないかもしれないのですが、罪の認識が共有されている共同体において、そう言った人間に対しては社会的に厳しい目が向けられます。

自分のやりたい事に対する基準が社会との関係において設けられ、身動きが取れません。下手したら買い物もできない或いは散歩もできない。

そして祓いは神々との対話と言う高度な精神的緊張を伴う時間を作ることで内省を深め、対外的には式典と言う公の場で反省をしている姿を晒すことになる。そうする事で、いったんの区切りをつけて罪と穢れが緩和、リセットされることであると考えます。

刑罰もまた祓えの一種と考えても同じです。罰は罪を犯した時点からはじまっていてその償いに刑罰を受けたり、祓いを行う必要がある。

以上の事を踏まえて、祓いの神様がいつでもおられるので、神道に生きるものは自律できない構造かと言えばそうでもないと思います。

祓いの前に上記の様な穢れと言う制裁(罰)を受けざるを得ない。これを犯してまで罪を犯すのかと言う心理的せめぎ合いは自律を促す装置として十分機能すると考えます。

特に神道信仰に生きる者が産霊を発揮できない状態即ち自分が自分らしく生きられない状態と言う「穢れ」は最悪の罰ではないでしょうか。

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神田 哲拓
神田 哲拓
神道ブロガー。神道研究で得られた智慧の共有をモットーに、神社や神道記事を執筆しています。 神社大好き人間(神社検定壱級)兼 大家さん(現在戸建1戸+宅建士)兼 サラリーマン。 神道研究とフォルクローレに没頭したい。あはれ、 あなおもしろ、 あなたのし、 あなさやけ、おけ。我が信ずるところに従いまして言の葉を紡ぎます。
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