
宗教の置かれた立場や信仰を貫く厳しさについての記事です。
神道人にとってはつらい環境ですが、私は将来の展望を信じております。
科学信仰と金銭信仰
神道だけの問題ではなく、何らかの宗教を信仰しにくい事については、現代社会がかかえる大きな問題点であると感じます。
宗教のニュースはネガデティブなものが多いのも事実です。
宗教=「高い壺を買わされた」と言う印象が付きまといますし、宗教は非合理的なもので「賢い現代人」を自覚する人たち、変人扱いされたくない人たちにとっては関与したくない分野の一つでしょう。
現代人は何に「信」を置くかと言うと、何らかの実験で証明された仮説、即ち科学が力を持ちえます。
客観的に正しいと認められた考えや論理を生活の基盤に置く事が「賢い現代人」のあるべき姿となっています。
ここで言う「信」として寄って立つべき科学の他に、偉い人が言っていた、皆がそう言うからと言った社会的な認知があるかどうかも「信」の判断基準になっております(これは日本人特有の信仰性質かもしれません)。
この科学信仰の性質として、客観的に正しいこと以外は排除する事がそのドグマ(絶対的教条)であると指摘できます。
そして現代人はこのドグマを自己の指導原理と崇め、強烈に崇めるが故に結果的に原理主義者となってしまう傾向があります。
この思考に落ちった場合、神道と言う不確実性を内包する価値体系をどう見るか。
宗教はその要とななる「神」の「存在の客観的な証明」の困難と言う重大問題を孕んでおり、この点はどう見みられるのか。
科学信仰の徒からどんな答えが返って来るのかは、容易く想像できるかと思います。
私自身、神も科学も信じると言う懐の深い人に出会ったことが無い気がします。
そして、もうひとつ科学信仰と親和性が高く、人間の享楽的な性質と強く結びついて、半ば信仰と言うより中毒と言える金銭信仰が幅をきかせ、神道信仰の道を閉ざしています。
現代社会はお金を中心に動いています。
お金があれば大半の生命維持活動が行えますし、トラブルも解決できるのです。
そして、精神的な救いも得られる事すらある(逆に言えばお金がないと精神力が高くなければ、生きて行く事が大変困難)。
従って、儲からないものは悪、儲かるものは善と言うドグマが産まれ、これも精神の指導原理となっていて、無意識に我々の行動を束縛します。
そして、社会の発展にはこの金銭的欲望を開放する方が良いと判断されているので、儲ける事を最上の価値とすることは肯定されています。
この教条を信仰する立場から神道を見ても、神道を信仰しても儲かるかは保証されません(但し、稲荷社等ご利益が大きくあった話は枚挙にいとまはないのですが)。従って、信仰や神道の勉強よりも儲け話に耳が傾くのは当然です。
良く考えれば我々は、無条件で科学とお金を仰ぎ信じていて、この呪縛は相当強い事が分る。
神道は科学も金儲けも決して否定しないのですが、科学と金儲けサイドからは神道を敬遠していると言う構造になっています。
宗教を信じるものは少数者と言う意識を持っていると、同じ信仰を持っている人と結びつきやすくなります。
やがてその結びつきは団体になっていったりしますが、この団体に加入することが罠だったりするのです。
この点「神道曰く己を鳥居とし本殿とするべし」をご参照ください。
タブー視される神道
上記の拝金と科学の信仰化と言う精神的な問題の他にも神道を取り巻く独特の悪環境について考えなければなりません。
それは、神道は先の大戦(我々の視点から言えば大東亜戦争、アメリカ合衆国の視点からすれば太平洋戦争)に日本を導いた悪い精神論であると言う捉え方をし、日本国内において神道を蛇蝎の如く嫌う方々が存外多くいらっしゃると言う事実です。
特定の歴史観から見た神道の解釈がそのまま神道とされてしまっているのですが、今はこの特定の歴史観が絶対的に正しく、客観的なものであるとの認識がなされています。
そうであるから、神道を信仰しようとすると社会的に正しいとされた歴史認識(神道は戦前の遺物で且つ日本国民を戦争に教導した悪いもの)と対峙しなければならなくなります。
この特定の歴史認識は学校でも教わり、学校で教わる事は科学的(科学信仰の呪縛)であって正しいものだと認識してしまいますから、大多数がこれを信用しています。
そしてこの大多数の人々からすると神道を信仰する人に対しては違和感を覚えざるを得ないでしょう。
この様な環境の中にあって、素朴に神道信仰を貫き通すのは至難です。
そうであるから、神道は宗教でなく日本人の文化であるとの被せ物をしたり、ことさら信仰していることを明言しないと言う方も中にはいらっしゃいます(私がそうでした)。
神道とお金については清貧と清栄の観点から、「神道とお金の話」で詳しく取り上げています!
これ以上の悲観はしなくても良い
私は特定の歴史解釈又は認識と神道は切り離し、神道は神道として研究すべきで、神道=悪の教えとの色眼鏡は少なくとも外すべきだと考えます。
神道は人物を創造する神の道。
本来は立身出世とは切り離し、肩書、社会的な立場を取り払った生身の人間を鍛える道です。
どうか神道に価値を見出した活眼の士は、科学信仰、金銭信仰、特定の歴史認識からの猛撃を受けたとしても、神道は我々の生命の躍動を支え、悪鬼悪霊から一霊を守る堅牢な砦である事を沈思し、これを研究自活することを諦めないでください。
現在の反神道的環境を悲観する必要はありません。
セオドア・ルーズベルト米大統領が新渡戸稲造の『武士道』に感動した様に、神道の蘊奥を上手く表現できれば思わぬ立場の人たちから賛同の声が上がるかもしれません。
そしてこの中つ国の神道の宗源たる天皇陛下(神話と現代を繋ぐ祭祀王)が今も尚、この国にはいらっしゃるのです。これだけで神道人にとっては光明なのですから。
あわせて、大変頼もしいのが、我々の世代やもっと若い世代の中に、多様な歴史認識が育まれており、所謂東京裁判史観が揺らぎ始めていることでしょうか。
神道が見直される時代は近いのかもしれません。