
団体と言う環境に依存すると成長できないよ!と言う話です。
あくまでも自分の主体性と自分の魂が主役であるべきなのです。
主体的信仰が失われる時
時に、神道を信仰する立場の私から見て普段は関係ないなあっと思っていても、他の宗教を信仰する偉人に感じ入るときがあります。
例えば内村鑑三。
この方はキリスト教徒でありまして教科書にも登場する青史の人ですが、「無教会主義」を提唱しました。
「無教会主義」教会を中心とした制度に浸るのではなく、自分の頭脳で以って聖書研究に向き合う姿勢の事を言います。
人間の性といいますか、団体に属するとただそれだけで居心地が良くなります。
団体の構成員になると主体性を持たずとも、団体の中の流れに身を委ね、一定の役割を果たせば一定の方向にその団体が導いてくれます。
そう言った団体には必ず導き手がおり、教えるものと教えられるもの立場が産まれます。
そして、どうしても教える立場が強くなり、時には導き手は絶大な権力を有してしまう。
客観的に見ると間違っているのではないかと思うようなことでも、我々は権力や権威には逆らえず、流されやすい。
教団がこう言った実態を伴ってくると主体的な信仰は息をひそめ、己の信仰を他人(団体の権力者)に預けるような状態になってしまいます。
一時的に教えるものと教えられるものの関係となったとしても、すぐにその関係から離脱し、冷静になる時間を設ければ弊害は少ないと思いますが、団体の所属する安心感は捨てがたいものです。
つまり、団体に入会してしまうと、その心地の良い環境で本質を希求する迫力が衰えて且つ自身はどうすべきかの主体的信仰の研究も等閑になりがちになってしまうのです。
そう言った状況下では、己の信仰を確立することは困難です。
無論、本当に優れた師を持てればそれに越したことはありませんが、出会い程難しいものはありませんね。
自己の信仰の確立
神道を信仰する者の基本的な心持として内村の言う所の「無教会主義」が一番良いのではないかと考えてます。
もっとも、自分の信仰のあり方を研究する気持ちが強くあれば、団体に所属することは可であると思いますし、本当に優れた師に出会えればそれに越した事はないのですが。
神道は神々を己の中に見出す事。
一人一人は小宇宙であり、この小宇宙に小さな天照大御神や小さな素戔嗚尊等八百万神が内在しております。
そのお力を発現できるかは、個人の力量、心の在り方次第なのです。
この意味で神道は個人に内在している力をどうすれば発揚できるか、或いはどういう力が秘められているのか神々のご神格や神話、神道学説の研究を通じて発見する道でもあるのです。
何かの勉強会に行って気付きがあると言うのも素晴らしい話ですが、自分の現状、ありのままの状態で『古事記』等の神典に直接向き合いその時に得られた感覚、驚き、感動を受け入れることが成長に直結します。
驚きと感動を伴った勉強は内容が記憶に残ります。
勿論、神典を読まなくても神々はこの中津国の様々な場所におられるのでその躍動をとらえ、感じる事もできるでしょう。自然が先生と言う人もいますね。
その為には、自分の中に神々がおられ、自分の体は鳥居と本殿であり、だから自分を大事にする事、信じる事が大前提。
そうすることで感受性が増し、より良い気づき学びを後押しします。
要するに自分なんて・・・と言う心持では近くに成長の機会があっても掴み取れないわけです。
自己肯定が神道信仰のスタートであり、団体への加入は二の次です。
そうでないと、いつまでたっても自己の信仰が確立できません。