神道論

禍津日神考

日本神話において、悪しき神と思しき存在が登場します。この神様の事について述べていきたいと思います。

正邪対立を好む吾人

我々は正邪を区別する事を無意識に、或いは意識的にやっています。

勧善懲悪は日本人の多くが好むところです。

悪さをする悪代官を懲らしめる謎のご老公一行に、悪戯をするバイキンをやっつけるアンパン等、正邪対立を明確にし且つ「正」が勝つことを望みます。

但し「悪」を勝たせる様な悲劇も好まれる場合もありますが、「悪」が勝つ事で感じる違和感、或いは絶望感を楽しむ少し捻くれた裏側の遊びです。

何が正邪の基準なるのか人それぞれなんですが、見識の浅い者ほど好きか嫌いかが大きな要因になったりします。

神道の中で悪の立場に認定される神様は八十禍津日神(ヤソマガツヒノカミ)と大禍津日神(オホマガツヒノカミ)の二柱。

伊弉諾尊(イザナギノミコト)が黄泉からお戻りになった時、禊をされた際に誕生した神々で、その御名を拝すると、「禍々しい」から連想される様に、自然と悪しき存在ではないかと考えてしまいます。

また黄泉の国の穢れから産まれた神であり、そのお働きは悪いできごと、凶事を司る神とされます。

そしてこの神々に対抗するため、神直日神(カムナオシヒ)・大直日神(オオナオシヒ)の二柱の誕生も語られます。

一見致しますと悪いこと司る神がおられ、それを直す神がおられる。まさに正邪の対立を神道神話にも持ち込んでいると考える事ができます。

黄泉の国と穢れから考える禍津日神

禍津日神が黄泉の穢れから生った神であれば、黄泉の国の意味を把握しなければ禍津日神の本質はわかりません。黄泉の国及び穢れを再考する必要があります。

まず穢れの代表的なものとして死が挙げられます。

おすすめ関連記事

神道と死については、「神道の死と穢れの概念」でさらに詳しく考察しています。

死を迎えた体は、どんどん分解されて行きます。そして、もう身体と呼べない程、分解されてしまい、ほとんど意味のない物質となってしまいます。「1」→「多」

黄泉はあらゆる「多」の保管場所となる世界。どういうことかと言いますと腐った状態、統一的な態を為さず、無秩序に体の細胞が離散している伊弉冉尊(イザナミノミコト)がおられる。この事がその世界のあり様を示唆します。

そうであれば逆に生とは一つ一つ意味を為さない物質(分子)を統合し意味のある存在、統一状態にあると言うことができます。「多」→「1」

この「1」に収斂させる力からは愛(統一に向かわせ大きな力)+創設(価値を見出す作業)=産霊=天照大御神を以って統治が行われている高天原を想起することができます。

我々はこの二つ間の世界にあって、「多」と言う物実を「1」に向かう力即ち収斂力・生産力・想像力・愛情を以って統一させ、様々なもを産出します(産霊)。

要するに穢れとは離散して意味のない状態、離散させる力。清浄とは固成されたもの、固成させる力と言うこともできます。

思えば、穢れに触れて、穢れた状態即ち悲しみや絶望に囚われている精神状況では、意識が集中できずに仕事に取り掛かれない事もままありますね。

集中、統一ができない状態ですから、これも離散作用の傍証でしょう。

ではこの離散させる力は不要かと言えばそうではありません。

我々は良く分析と言うことを行います。物であれ概念であれ、ある一個の事物を統一体であると仮定し、それを分解し構成要素の理解に努めます。

その結果、その分析対象の成り立ちを理解することができ、自身の力でその過程を踏んでその分析対象と同じものを創造することが可能になります。

さらに応用すれば構成要素の組み合わせを変化させて全く別の事物を創造することも可能になります。

その意味で統一と反対の作用として分解の力も、次元の高い統一体を産む時には必要と言うことができるのです。

また、我々の記憶は体と統一的に存在する事も可能ですが、多くの記憶は無意識化即ち黄泉の国に沈みます。

物も同様です、例えば新築のお家は誰もが住みたいと思う=価値がある=産霊の成就ですが、朽ち果てて屋根が破れ、壁崩れた状態、即ち統一的でなくなると見向きもされない、無視される。中つ国にありながら黄泉の国の存在となっています。

この無意識化の中(黄泉の国)から分裂してどうしようもないもの(穢れ)を中つ国(現世)に掘り出し、持ち出してくるお働きが禍津日神の御本質ではないかと私は考えるわけです。

そして我々は天照大御神のお働きを利用させて頂き、禍津日神が持ち込んだ穢れを再構築して新たに有用なものを生み出す(神直日神のお働き)。

この様に考えれば禍津日神は悪い神と言う一面的な理解は誤りではないでしょうか。

禍津日神の一柱をで以ってしてもこの様なご神格の解釈ができるわけで、これを抽象的に考えれば、万事多面的に解釈でき、絶対の定義はなく定義を定める者の心次第という事もできそうです。

まとめ:

①禍津日神のお働き→

②無意識化の事物を顕在化させる神(Ex.不意に昔の記憶を嫌な気持ちと共に思い起こさせる等)→

③この顕在化した物事と向き合うことで、これらは価値あるものを構成する材料となる→

④産霊の材料を提供するのであれば、人類にとっては福の神→

⑤禍津日神従って純粋な悪神とは言えない。と言う事になるでしょう。

ABOUT ME
神田 哲拓
神田 哲拓
神道ブロガー。神道研究で得られた智慧の共有をモットーに、神社や神道記事を執筆しています。 神社大好き人間(神社検定壱級)兼 大家さん(現在戸建1戸+宅建士)兼 サラリーマン。 神道研究とフォルクローレに没頭したい。あはれ、 あなおもしろ、 あなたのし、 あなさやけ、おけ。我が信ずるところに従いまして言の葉を紡ぎます。
こちらの記事もおすすめ!

COMMENT

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です