
神道が難しいと感じてしまうのは、分析の為の方法論が知られていないからなんです。逆に言えば分析方法を知る事ができれば、神道の研究も行いやすくなります。
今回は、神道神学の核となる組織神学を紹介します。
神道理解の為の組織神学
神道を考える時に組織神学と言う思索の為の枠組みが大変役立ちます。
これは、上田賢治氏と言う神道学者が提唱した神道理解の方法です。
もともと神道では言挙げは慎むべき事とされており、これを文字通りに解せば「ゴチャゴチャ言わず心で感じなさい」と言うことになります。
この事は論理化よりも祭祀(行)が重要視されてる点からも明らかです。
しかしながら、神道を言語化する事については、第一に「古事記」や「日本書記」、「万葉集」によって古より現代まで神話が言語で伝えられてきた事実、第二に「祝詞」を以って即ち言語を以って神々と人々との交通を助けてきた事を考えると、あながち言葉で神道を語ることも許されるのではないかと考える事もできます。
そもそも神道の言語化、そして言語化による客観化、分析は八意思兼神(ヤゴコロオモイカネノカミ)のご神徳を以って神道を解き明かす事であり、その行為そのものが「神道的」な試みであると思います。よって私は神道に対する重要な接近方法だと考えています。
組織神学では神道理解の為に下記の通り研究領域を分けます。
- 「神」=信仰の対象は何か。
- 「世界観」=神道は世界をどう理解するのか。
- 「人」=信仰の主体たる人をどう理解するのか。
この様に、神道の要素を大まかに整理する事で何を研究対象し、何の領域で論点なのかはっきりします。
そうする事で言語化の助けになるわけです。
言語によって理解すると言うことは、神道に興味がない或いは価値が見いだせない方々に対して理解を促す知識体系を構築すると言う事にもなります。
また神道の道を歩む者にとっても「審神者」となる為に必要であり、神秘体験談に踊らされず、神道の奥義に到達する事にも繋がります。
神秘体験談について付言しますが、神様の言葉が聞ける巫覡(フゲキ)や巫女の言葉を100%にしてしまうと、主体的信仰は樹立できない可能性がある。神道や神々のお言葉を他人の理解に委ねているからです。
この事は命もち(ミコトモチ)、一人一人の主体性を説く神道とは逆行している気がして仕方がないのです。
もっとも、知識の深化(言語化)を推奨したい一方で、古伝行法に則り神人合一を果たそうとする玄學を否定しているわけはありません。
思索により神道理解の道もあるだろうと考えるわけです。
「神」「世界」「人」の要諦
上田賢治氏の上記三つの要素は下記の通り理解されています。
全論点を記載するわけには行かず多少乱暴なまとめ方になっていますので、詳しくは上田賢治著『神道神學』神社新報社をご一読ください。
神 : 本居宣長の定義を引用し、「尋常ならずすぐれた徳のあ」るものを神だとしています。悪い作用であれ良い作用であれ、働きが旺盛なものを神であると。
『神道神學』 においてキリスト教の創造主としての神、被造物の世界に対し世界が既にあり、その世界に現れた「生れる神」「成る神」と言う神と世界の対比論が展開されています。
世界: 神道神学上、今我々が生きている中津国は「天壌無窮の神勅」からして天皇陛下が祭りを執り行う事で、弥栄が担保された世界=上昇史観とされています。
キリスト教の「最後の審判」、仏教の「末法の世」或いはこの世からの「解脱」が最終目的としている現世に価値を見出さない世界認識とは真逆な点が特徴。
神道の世界感はその時間軸においての解釈だけではなく、高天原、根の国中つ国と様々なキーワードが登場します。詳しくは、「神道の世界観ー高天原と根の国と中津国ー」をご参照ください。
人: 神々の子孫であるとの認識、その為キリスト教に言うゴットの似物でもなく「原罪」を負わない存在。但し、日本人は色々やらかしてしまう日本の神々の子孫であるから完全無欠な存在ではないとされます。
こうしてみるとキリスト教や仏教と対比すると言う手法でそれぞれの要素が明らかにされています。中でも上昇史観であるとの整理の仕方は面白いですね。
この世で栄える事を決して否定せず、自分の理想を今生で実現し天益人として、神々と共に中津国の弥栄に参加する事が許されています(むしろ推奨されています)。
神道における組織神学研究の最高到達点が上田賢治著『神道神學』なのか、学問はどんどん更新されますのでそれは分からず、また別の人がこの三つの概念について違った意味を持たせ、それがもっと説得的な学説であると言う事も起こり得ます。
しかしながら組織神学の出発点になる必読の本である事は疑い得ません(上昇史観と言う世界の説明の仕方には私も同意する所でございます)。
神とは、世界とは、人とは、哲学的で一見面倒な問いですが、この思索で得られた成果を手掛かりに神道に対する疑問に答えを見出し、神道を理解しようとする事で、結果、祭祀の場面等の「行(形式)」と「学(神道的意義)」を結びつける行学一致の架け橋となるものと思います。
(神話を抜きにして、この三点を考える作業を純粋哲学?と呼ぶのでしょうが、今の私の研究においては射程外です。)